遠浅

平野明

窓/埋葬 平野明/横田創

本を作りました。戯曲「窓/埋葬」が収録されています。

liondo.jp

 

2人はファミレスにいた。2人でいつもファミレスにいた。悦子の電話が鳴るまでの時間つぶしをしていた。4人掛け座席。端から2つ目の窓席だった。昼はテーブルにひだまりができた。それは夜に向かって消えていくのだった。

 

この戯曲はわたしのものではありません。横田さん、るなちゃん、竹田さんの関係の中でできた言葉です。関係の中で削がれ、注がれ、唯一可能だった言葉です。美人に組んでくれた中村さんも、絵を書いてくれた友人いだちも。本当にありがとうございます。

週末これが神奈川で公演されます。劇場で見れるのは「窓/埋葬」の上演台本です。
この台本はわたしのものではありません。パー、レナ、あやちゃん、増田さん、いだちの関係の中でできた言葉です。関係の中で、削がれ、よみがえり、繰り返され、唯一可能だった言葉です。

 

言葉の寛容さを教えてくれたのは横田さんでした。言える/えない言葉、言いたい/たくない言葉、要る/らない言葉は、その時の関係で変えていい、変えるべきだと教えてくれました。
本屋で戯曲を手に取ったその人が、その人の関係の中でこの言葉を解体し、継ぎ足し、削除し、ト書きを読み上げ、または無視し、最終的に可能であった言葉の元でこれを再生してくれるのなら、これにまさる喜びはありません。

まだ芝居のお席あります。3/31から4/2まで。若葉町ウォーフにて。戯曲は残るけど、上演台本は公演時間だけのもの。よかったらいらしてください!がんばるぞーお。本の先行販売もします。窓/埋葬 予約フォーム

 

欠けについて

f:id:hiramydays199:20230319202334j:image(春だわ)

 

欠けたお皿が目の前にある。だけどそれがほんとうに欠けているのかは分からない。そうだよね?

言葉あそびではなく、大抵のものは全て、欠けるの状態で満ち、満ちるの状態で欠けている。満ちるに向かって欠けていくのではなく、欠けるに向かって満ちていくのでもなく、三日月は三日月という形で満ちており、満月は満月という形で欠けている。あたりまえだよね?

一見ネガティヴな行動にもポジティヴな意図が折り込まれている。むしろ行動は自分のポジティヴな部分でしか招くことができない。それがどんなに最悪な行動だろうと、自分を嫌いになるスイッチだろうと、命はしあわせを願っている。出力の違いがあるだけで、それは絶対変わらない。

お笑いでもドラマでも、「おもろい」とはつまりどれだけ一緒にわたしたちのふつうを見つけられたかに尽きる。作り手と観客が一緒にふつうを見る。そのふつうからちょっと落とされた時に少し笑える。またふつうに登る。また落ちる。またふつうを歩く。また落とされる。少し笑える。その歩いては落ちての蛇行。蛇行そのものが、わたしたちのふつうだったと気づいたとき、今度は少し泣けるかもしれない。まあこの話はどうでもいいんだけど。さて、「落ちる」が「落ちる」になる瞬間はどこでしょう? 答え。ふつうを作ったそのときです。

行動は行動でしかない。ネガティヴはいつも言い訳(後付け)だ。ふつうから落っこちた君は自分を責める。だけどそのふつうは何も普通じゃない(=イカれてる)とわたしは思う。出所不明の道徳がふつうなら君は間違いなく落ちこぼれだ。自分を大事にできない君はばかだ。もっと身体を大事にしなさい。自分に優しくしなさい。できない君は狂ってる。

自分に厳しい君は欠けている。だけどその状態のまま満ちていることをわたしは知っている。そりゃ身体を大事にして欲しいとは思う。君のことが大事だから。

なんでそんなことするの? って聞いたってなんの意味もない。黙って部屋に引き返すこと間違いなし。行動の根っこは、ぎりぎり生きてるポジティヴな意思だ。意思は行動に出力される。君は君なりの最善で出力する。それは間違いだと言われることもある。間違いだと言われることの方が多かったかもしれない。

だけどどうか。その出力を責めないで。どんな形でも責めないで。泣かないで。泣いてもいいけど。責めないで。責めてもいいけど。忘れないで。行動はいつも君を延命させるためだけにある。命は死ぬまで君を肯定する。

行動を嗜癖にしないために必要なこと。それは開き直りだ。今のところそれしか思いつかない。煙草なんてばかばか吸えばいいじゃん。ご飯なんてもりもり食べればいいじゃん。ぐだぐだ言う彼氏とは別れちゃおうよ。手首切ったあと「あ〜スッキリ」って言う君に会いたい。

自己否定(生)と理想(死)の永遠の綱引き。命が描く線(生)と出会いの拒否という点(死)の永遠の殴り合い。だけど戦いはいつか終わる。絶対終わる。両者試合放棄という形で終わることをここに書いておく。約束する。君は新しい踊りをはじめる。

だいじょうぶ。約束する。いつか終わる。絶対終わる。ほんとうに、いつかぜんぶ終わる。

2月

2月のマグは青森市で。雪の日に買った。多分天気につられた。

東京を出た足で青森に寄り京都の稽古に参加して長野のまつもとへ。バスの中で原稿を読む。昔からバスの中で文章を読むことが好き。朝も昼も夜も好き。特に夜は街灯が文字を走っていくのが好き。バス酔いする。

 

絵本の朗読とインスタレーション『クジラと少年』/toiro 
色々でたのしかった。オーガンジー作家のまりちゃんの作品がでっかくて本当に素敵だった。https://instagram.com/kokoiro_art?igshid=YmMyMTA2M2Y=

いよかんを切ったら自炊欲が突然戻った。あなたに会ったら突然アディクションが終わった。本を書く中で救われた。ている。10年続いたわたしの地獄が終わった。終わらせた。

 

窓/埋葬

舞台をやります。

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予告です。

www.youtube.com

 

「窓/埋葬」
作  平野明
原作 横田創「埋葬」(早川書房)

【日程】2023年
3/31(金) 19:00
4/1(土)①13:00 ②17:00
4/2(日)①11:00 ②15:00
【場所】
若葉町ウォーフ
【チケット】
一般 3500円 学生 3000円 当日 4000円

【ご予約はこちら】 

www.quartet-online.net

 

出演        岩﨑伶奈  笠井晴子  坂本彩音
音響   増田義基
照明   平野明
舞台美術 笠井晴子
衣装   idachi
宣伝美術 岩﨑伶奈
写真   ぬまり(@numariver)

 

 

これは横田創さんの「埋葬」という小説を原作にしています。ただ、原作の再現ではなく、"窓"をひとつテーマに私の埋葬を書きました。

舞台は、2023年春の青森県です。青森県八戸市には種差海岸というすてきな海岸があるのですが、そこのファミレスから物語ははじまります。3人芝居です。良かったらいらしてください。4/1(土)13:00の回は、ゲストに横田さんをお招きしてアフタートークをします。

 

横田創「埋葬」はやっぱりすごい本です!誰がなんと言おうと私は好き。気になる人はぜひ読んでみてください。無駄なことはひとつも書かれてないし、読後は良い舞台を観終わったときに似た喪失感でいっぱいになります。そして、読んだら誰かに話さずにはいられなくなる。だって、そう物語が叫んでいるのだから。三年前、これを勧めてくれた蔦屋家電の社員さん、ありがとうございます。)

 

1月

1月のマグは京都で。爆音クラシック流してるお店で。まけてもらって800円。おばちゃんありがとう。


超かいた。ほんとかいた。基本書くはひとり作業なんだけど、ラリーに付き合ってくれる方がいて、その中で「書く」じゃなくて、書きこみあげてく、楽しさを知りました。とてもぜいたくで貴重な経験だった。

吹雪。

あ、ゆき。と思ったらもう遅く、どっかんどっかん降り出して、あっという間に京都が真っ白になった。10年に1度の大寒波だそう。天気が落ち着いて外に出てみたら、すでに川沿いには雪だるまが乱立していた。かまくらもできていた。雪玉も一応投げました。友人宅では水道管が爆発したとか。寒い。最近ほんと、どうかしてると思うぐらい寒い。みんなあったかくしてご自愛ください。

山の座標

本は人の成長を待ってくれるけれど、舞台は成長を待ってはくれない。いつもいまの自分でしか見れない。いまの体調、いまの立場、いまの知識、いまの持ち物、いまの見方、つねにいましかないという意味で、出会いそのものみたいだと思う。なんでいまの自分が出会ってしまったんだろう、ということがあっても、それはいまだからだ。10年前に見たかった(もしくは10年後に見たかった)、あなたにもっとマシな自分で会いたかった。でもどうしよーもない。もう出会ってしまったのだから。いまのわたしのまま。

成長とかいうけど、人の性格とかレベルに良いも悪いもない。ただ座標が違うだけだ。(ルールがあるからいいとかわるいとかがあるだけで、単体でみたらみんなかわいい球体だと思う。)でも目指したい座標があって、それに徐々に自分を近づけていくことはあると思う。それはその人にとって成長だ。周りには退行に見えたとしても、人の中にはいつも進化しかない。座標から座標へ。人はどんな座標にいてもいい。

目指したい座標がある。それは山の座標だ。私が出会うことのできた凄い人たちは、みんな初対面で『山』の印象がある。付き合いが続いて山の印象が薄れても、彼らはずっとやさしくて、誰かに対して手のひらを返すところをみたことがない。山の人たちはたいてい、地に足がついてる感がすごくて、体つきも安定感があって、循環しているエネルギー量も実際の仕事量や活動量も半端ない。そして、情緒が安定していて、ハートもどっしりと開かれていて、人格者特有の清潔さがあった。わたしはまだ山を歩く人間だ。導かれるまま(彼という)山に入り、鳥とか木漏れ日とかを楽しんで夕方には街へ降りていくひとりだ。

はやく歳をとりたいと思う。若いって若いだけしかない。歳をとって、この座標から抜け出して、山になりたい。だけどそれには、いまのヘンテコな座標から山への試行錯誤の長い道のりが必要だと知っている。全ての人がはじめから山なわけではないし、一息に山になれるわけでもない。いまの自分にとってのデフォルトモードを少しずつ高くして、踏み固めて、疲れたらジャンクなものも許して、元気になったらまた薄く高くして、踏み固めて、地味に座標を動かしていく。

人はわたしの成長を待ってはくれない。舞台もわたしの成長を待ってはくれない。いまのわたしでしか会えない。そのスピード感についていけない時があるし、出会いの座標にわたしが追い付かなくてつらい時もある。いまはいつも本番で、全てはいまの連なりで、そういうストイックな考え方は疲れるから普段しないけど、全ての出会いにできるだけいい状態でノリたいなと思う。

 

p.s.舞台が出会いなら、本は人だ。山だ。本はやさしい。ずっと待っていてくれるから。どんなにいまがダメダメでも、どんなに忙しくても、ひらける・読めるわたしになるのを何年間も待っていてくれる。