遠浅

平野明

親指Pの修行時代/松浦理英子

“無邪気で平凡な女子大生、一実。眠りから目覚めると彼女の右足の親指はペニスになっていた。”(河出書房HPより)

30年前の松浦理英子のベストセラーである。
1995年の読者は何を思っただろう。ちょうど戦後50年、インターネットも未発達で、わたしはまだ生まれていない。古橋悌二が生きていて、世界のどこも同性婚が制度化されていない時代だ。

この本のすばらしいところは、かなり最低な男根主義者が登場するところだ。わがままで思い上がりの激しい裁判官は〈宇多川〉という名を持ち、言葉を通してわたしを挑発する。

「やめた方がいいよ、レズなんて。女と女の間から何も生まれないんだから。男に相手にされないような不細工な女ならレズになるのもしかたがないけど、君は可愛い方なんだからその春志くんとつき合ってればいいじゃないか。」(p221/親指Pの修行時代下巻)

やばすぎる。読みながら軽く死ねと思う。現実世界で対面したら、無視して終わりなのだが、〈宇多川〉は物語が終わるまで退場してくれない。ここは小説だ。気色が悪い言葉が四方から飛んできて挫けそうになる。松浦理英子は見える限りの通念を受け止め掘り出し、消化させるまで言葉を切らさない。桃を金属たわしで擦りつけるような無遠慮な痛みがあり、憎しみが湧く。

普通に生きていて、ここまで滅多刺しに言われることはない。一言二言あっても、差別的な奴だと分かった時点で人は去っていく。無駄な摩擦を好む人はいない。だがここは小説というフィールドなのだ。

書くことは認めることだ。きっと松浦理英子は〈宇多川〉を認めている。この点にいちばん驚かされたし、すごいところだと思った。尊敬した。わたしは〈宇多川〉を許せない。書いてやらない。すぐに頭に血がのぼる自分が恥ずかしい。

ところで、さきほどの暴言を聞いた一実はこう思う。

宇多川の口から次々と飛び出した珍説に、私は呆気に取られた。女と女の間からは何も生まれないと言うなら、男と女の間からだって子供以外にいったい何が生まれると言うのだろう。男に相手にされないから同性愛になる女が実在するのかどうか私は知らないが、宇多川は何を根拠にそういう女が実在すると考えているのだろうか。さらに、男に相手にされる女であれば男とつき合っていればいいなどと、女は自分の欲望ではなく男の必要に応じて性向を決定すべきである、と暗に強制するような奢り高ぶったものの言いかたがなぜできるのだろう。(p221/親指Pの修行時代下巻)

「それな」である。
一実という主人公は22歳の無邪気な女子大生という設定なのだが、痒いところに手が届くキレキレの切り返しに松浦理英子を感じる。地の文の批評が見事すぎて、後半は正座で授業を受けている気持ちだった。

奇抜な帯文に惹かれて読みはじめた人の多くが、松浦理英子のやろうとしたことや、言葉が強度を増していく経験に、意外な思いをしたんじゃないか。わたしもそうだ。フルスイングですがすがしい。読んでよかった。

私の修行時代/コレット/佐藤実枝訳

63歳のコレットがかつての下積みの時代……20歳で結婚し33歳で離婚するまでの13年の時間を再訪する。修行時代、コレットに言わせればそれは「自分は自分でしかなく、つまり心優しいひとりの若い女でしかなくて、匿名の仕事にも、服従の生活にも誇りを持てずにいることに心中ひそかに悩んでいた時代」。コレットの言葉はテレビの副音声のようだ。怖かったパリ、肉の代わりに食べる砂糖菓子、ガス燈の青さ、クロディーヌの執筆とアトリエ、あの舞台女優の純真さ……。修行時代のさなかに修行時代について書けはしない。これは彼女のノスタルジーではなく、彼女の記憶から届いた手紙。

私は鍛えあげた神経を傾けて音楽を聞いた。私の音楽的記憶はひどく鮮明で、そのざわめき、メロディ、(音の)包囲から容易に解放されなかった。床に入っても、通りのガス燈の青ざめて翼の生えた影が天井にちらちらするのを眺めながら、心の奥底で歌い、足の指や顎の筋肉でリズムを取っていたものだ。

モロッコ流謫/四方田犬彦

文章にジュネを探してしまうけど、モロッコに縁のある作家をばーっと読めてかなりおもしろかった。ポール・ボウルズのパートナー、ジェイン・ボウルズが破天荒な女すぎていい。読みながら何冊か本を買ったり借りたりした。文章上手。いい読書ができた。

エル・カトラニはジュネの死後、鬱々とした日々を過ごしていたようである。ジュネをめぐる学会が南モロッコで行われると聞いて汽車に乗り込んだものの、悲しみのあまりに家まで引き返してくるといったことがあり、やがて交通事故で不帰の客となってしまった。ジュネに昔買ってもらった車に乗って、深夜に樹木に衝突してしまったのだ。ジュネが死んでほぼ1年後のできごとだった。

 

一神教と聖典

三大一神教ユダヤ教キリスト教イスラム教)につながりが見えるとおもしろい。わかる範囲でまとめてみる。

○3つの聖典
三大一神教にはそれぞれ聖典がある。聖典とは、神による「啓示」が書かれているもので、旧約聖書新約聖書クルアーンの順番で成立した。

ユダヤ教
 聖典旧約聖書
ユダヤ教では聖典のことをタナッハと呼ぶ。)

キリスト教
 聖典旧約聖書新約聖書
カソリックは紀元前3世紀以後にユダヤ人によって書かれた第二聖典も認める。プロテスタントは第二聖典を文学として扱う。)

イスラム
 聖典クルアーンコーラン

聖典の言語系統
次に聖典の言語系統を見てみる。
旧約聖書ヘブライ語セム系)
新約聖書ギリシア語(インド・ヨーロッパ系)
クルアーンアラビア語セム系)
セム語系は右から左へ書く。インド・ヨーロッパ語系は英語やドイツ語と同じ分類。

ユダヤ教キリスト教旧約聖書を共有しており、ユダヤ教イスラム教の聖典には言語系統が同じであるというつながりがある。

聖典の構成
旧約聖書→律法書/歴史書/文学書/予言書
新約聖書福音書使徒言行録/書簡集/黙示録
クルアーン→114の章(スーラ)と章句(アーヤ)

聖典の内容
旧約聖書
紀元前の数千年の歴史。神と人間との関係(=契約)について書かれている。十戒を中心とする「律法」を神が与え、人間が従うことを誓い、神から祝福を与えられる。
古代世界において、エジプト、アッシリア、ペルシア、バビロニアなどの大帝国が覇権を争う中、厳しい状況に置かれ続けたユダヤ人たちがどのような苦難を生き抜いてきたかを中心とした文書の集合体。
新約聖書
紀元後に登場したイエスの人生とその後について。神と人間の仲介者になったイエスと、人々との関係(=契約)について書かれている。
クルアーン
西暦610年ごろ、ムハンマドが大天使ガブリエルを通して神から啓示された言葉。一字一句が神によって語られた言葉であるとされ、日本語訳などのクルアーンの翻訳は聖典ではなく「解説書」にとどまる。(聖書の言葉は神が語った言葉ではなく、人間が解釈して記録したもの。)

聖典アブラハム
旧約聖書の創世記に登場するアブラムは神からこう告げられる。「故郷(メソポタミアのウル)を離れ、カナンの地(パレスチナ)へ行きなさい。あなたには子孫を約束し、その子が土地を受け継ぐことを約束する。」アブラムはそれを信じ、信じたことが彼の義と神に認められ、神からアブラハムという名前を与えられる。

アブラハム(とこの物語)は唯一神信仰の原型的人格として、ユダヤ教キリスト教イスラム教で崇敬される。新約聖書ではパウロに言及され(ガラテヤの信徒への手紙)、イスラム教でも「イブラーヒーム」の名で何度も言及される。

ユダヤ教の解釈
キリスト教イスラム教は、それぞれの指導者がまったく新しい宗教を作ろうとしたのではなくて、旧約聖書を誰よりも読み、解釈した人間を崇敬した人間から広がっていった2つの枝。イエスが説教していた内容はユダヤ教だし、イスラム教も聖典の中でユダヤ教キリスト教を認めている。

新約聖書物語(文:脇田晶子 絵:小野かおる/女子パウロ会)
旧約聖書新約聖書は絵本で読んだ。女子パウロ会のは、ざっと全貌を見通せつつ、詳しい部分もあって面白い。イエスの復活を見たペトロの話がいいので引用する。

夜明けごろ、岸辺に誰か立っています。その人は大声で、
「おうい、魚はとれたか」と話しかけてきました。
「とれなあい」と叫び返すと、その人は、
「舟の右側に網をおろせば取れるよ」と教えました。
言われた通りにしてみると、網がはち切れそうになるほどたくさんの魚が、いっぺんにかかったのです。ヨハネが、
「主だ」といいました。
主だと聞いて、ペトロは急いで上着をひっかけ、湖に飛び込みました。舟は網を引きながらゆっくりと岸につきます。岸辺には炭火がおこしてあって、魚が一匹焼いてあり、パンもありました。イエスが、
「いまとった魚も持っておいで」とおっしゃったので、ペトロが引き上げると、大きいのばかり153匹もかかっていました。イエスは、
「来て食べなさい」とパンと魚をむかしと同じ手つきで分けてくださいました。
食事が終わったとき、イエスはシモン・ペトロにおっしゃいました。
「シモン、きみは、この人たち以上に、わたしを愛しているか。」
ペトロは答えました。
「はい、わたしが愛しているのを、主はご存知です。」
エスは、
「わたしの子羊の世話をしなさい。」とおっしゃいました。それからまた、
「シモン、わたしを愛しているか。」
「はい、わたしが愛しているのを、主はご存知です。」
「わたしの子羊の世話をしなさい。」
そして、三度目、
「シモン、わたしを愛しているか。」
三度までも、愛しているかとたずねられて、ペトロは泣きたくなりました。
「主よ、主はすべてをご存知ではありませんか、わたしが主を愛していることも……。」
すると、イエスはおっしゃいました。
「わたしの羊の世話をしなさい。」
この言葉で、ペトロはキリストの教会の最高の指導者に立てられたのでした。
(p204 新約聖書物語/文:脇田晶子 絵:小野かおる/女子パウロ会)

○イエスの復活について
十字架にかけられたイエスが3日後に復活したエピソードは有名だが、大衆の目にも明らかなように復活したのではなく、弟子などの前に現れるという個人的なものだった。マリアはイエスが「マリア」と呼ぶのを聞き、弟子はイエスが懐かしい手つきでパンをちぎるのを見た。しかし復活から40日目、イエスは弟子たちの前で天に登っていった。
山本芳久の「キリスト教の核心を読む」の中に、イエス復活の解釈のヒントが書かれてある。

キリストの「復活」とは、キリストが単なる人間ではなく神的な存在であることが決定的に明らかになった出来事-神的な存在として今も弟子たちと共に人生の旅を歩んでくれる方だということが弟子たちに露わになった出来事-として理解されるのです。(キリスト教の核心を読む/山本芳久)

エスの復活を見た人は、手つきにイエスを見て、声にイエスを見た。それは会いたい気持ちが幻覚や幽霊を見せたのではなく、イエスが残していった手つきや言葉に、本当にイエスが見えたのだろう。というか、それがイエスであることを知っただろう。常に存在するのに見えなかったものが見えたとき、イエスはいつもすでにおらず、行為の中に存在し、いつまでも祈りの傍らに居続けてくれることを知っただろう。

 

参考:
キリスト教の核心を読む/山本芳久
旧約聖書物語/文:脇田晶子 絵:小野かおる/女子パウロ
新約聖書物語/文:脇田晶子 絵:小野かおる/女子パウロ

女という生きもの

どうして生理の話は恥ずかしいのだろう? ドラッグストアでは紙袋を用意してくれるし、実家では生理や性の話はタブーだった。「生理バレ」に怯え、生理用品のハート柄にふるえ、このテーマの扱いの難しさ(不器用に寄り添ったり突き放したりする関係)は、すでに社会の全体で共有されている感じがする。

生理は女に妊娠する力があるから起こる。排卵が起こり、妊娠の可能性に向けて子宮内膜が厚くなり、受精しないことが分かると、準備されていた子宮内膜が流れ落ちる。これが生理だ。

“妊娠に向けて準備したが、されなかったので排出した。”という結果を毎月血のかたちで見せられると、身体の才能に歯向かい続ける自分の生き方が間違っているような気がしてくる。生理は50歳あたりまで続くという。残り30年だとして、あと360回以上の生理がくる。妊娠して生理が止まっても、子どもを産めばまた生理がくる。ピルを飲んでも、止めればまた生理がくる。繰り返される身体からの報告は、わたしが女である以上に動物であることを自覚させる。

どうして恥ずかしいか? それは社会が動物的なしるしを隠す場所だからだ。社会はかっこいい。生活感がなく、意思が一貫していて、不死だから。社会と動物は非対称に存在し、常に社会は社会を、動物は動物を求める。

腰が重くて吐き気がする。ベッドに横になりながら、なぜ哲学者が男性ばかりなのか少し考えていた。女性が教育から排除されてきた歴史も大いにあるだろうが、毎月の生理が強制的に自分の足元を見つめさせるせいもあるのではと思った。生理は身体を絶対に忘れさせない。体調不良を訴え、流動的で、手がかかる肉体のことを忘れさせてはくれない。

それでも男性的な社会のことが、わたしは好きだし否定できない。動物的なことをいったん括弧にくくらなければ、哲学や数学の世界はこれほど遠くまでこれなかった。不死の世界を学ぶことはパンにはならないが、生活の役に立つかどうかしか聞けない人間の、なんと夢のないことか。

女は最悪だが、生まれ変わるならまた女がいい。あたりまえだ。

2月

これ、ぱーちゃんが編んでくれた巾着なんだけど上手じゃない? 突然はじまる編み物教室。わたしは紐通すところでギブアップして、編みかけの巾着は本棚に差してしまいました。ということで2月は編み物。(ウソでも一度は編んだもん。)

f:id:hiramydays199:20240414231218j:image街灯にとまってたり、水に浮いてる鳥たちは何かというと、カムチャッカから越冬にやってきたユリカモメかオオバン。1日ごとに夏になったり真冬になったりするおかしな2月の気温変化の中で、彼らが明日にでも帰ってしまいそうでドキドキする。来年も越冬に来てくれたらいいなと、まだ帰らないうちから思っている。

中東戦争を読む

4回の中東戦争レバノン内戦をまとめたい。

○1948年 第一次中東戦争
(別名:パレスチナ戦争。イスラエルでは「独立運動」。アラブ側では「ナクバ(=大災害)」)
・交戦国
イスラエルアラブ諸国(エジプト・シリア・イラクレバノン・ヨルダン)
・きっかけ
1948年にイスラエルが建国宣言をしたことによって。建国やシオニズム運動に抵抗するアラブ諸国との間で戦争が勃発。
・結果
イギリス・アメリカの支援を受けていたイスラエルの勝利に終わった。
1949年に国連の仲介により停戦。イスラエルは国連分割案(注1)よりも広い土地を占領して独立を確保した。このとき休戦協定で定められた境界線をグリーンラインという。

注1:国連分割案(1947年)
パレスチナ問題を解決するための国際連合(注2)によるパレスチナ分割案。土地の57%をユダヤ人に。43%をパレスチナ人に。エルサレムは国際管理下に置くという提案だった。ユダヤ人は不十分ながら昔の約束(バルフォア宣言。注3)の実現を歓迎したが、アラブ諸国は反対した。

注2:国際連合
1945年に発足した国際機構。本部はアメリカのニューヨーク。
国際連合の理念の元になる国際連盟1920年に発足した。本部はスイスのジュネーヴ。初期の常任理事国はイギリス・フランス・イタリア・日本。
"世界の警察"と言ったら、1945年まではイギリスのことだったが、それ以降はアメリカを指すようになる。

注3:バルフォア宣言
第一次世界大戦末(1917年)にイギリスがユダヤ人に対して「戦争が終わったらパレスチナの地にユダヤ人国家の建設を認める」と宣言した。

 

○1956年 第二次中東戦争
(別名:スエズ戦争
・交戦国
イギリス・フランス・イスラエルとエジプト
・きっかけ
エジプトのナセル大統領がスエズ運河(注4)国有化を宣言したことによって。
衝撃を受けたイギリスはフランスに働きかけ、共同でエジプトに侵攻した。イギリスはスエズ運河会社の株主としての利益を失い、運河航行の自由がなくなることを恐れた。イスラエルはまだ領土を拡大する必要があった。
・結果
イギリスとフランスに国際的非難が寄せられ、国際連合の勧告により停戦。エジプトは戦争では敗れたものの、スエズ運河のエジプト国有化という実質的な勝利を収める。

注4:スエズ運河
スエズ運河は、地中海と紅海を結ぶ全長193km、深さ24m、幅205mの人口水路。当時は全長164km、深さ8m。
営業開始は1969年。運河建設にはフランスの外交官のフェルディナン・ド・レセップスが指揮を取る。イギリスは建設に一貫して反対だったが、実際運行が開始されると利用の8割がイギリス船だった。1875年、スエズ運河会社をイギリスが買収。その利益はイギリスやフランスの株主に分配し、エジプトにはわずかな利益しかもたらさなかった。

 

○1967年 第三次中東戦争
(別名:イスラエルでは「6日間戦争」)
・交戦国
イスラエルとエジプト、シリア、ヨルダン、イラク
・きっかけ
1967年6月にイスラエルが奇襲をかけたことによって。
エジプト、シリア、ヨルダン、イラクに先制爆弾を加え、スエズ運河に向けて進撃。旧約聖書ではカナンの地はエジプトのシナイ半島も含まれるというシオニスト改訂派の主張があった。
・結果
6日間でイスラエルの圧倒的な勝利に終わる。イスラエルは新たな占領地を獲得し、領土に加えた。①エジプトのシナイ半島②シリアのゴラン高原③ヨルダン西岸とガザ地帯。エルサレムも実効支配し、イスラエルの国境は拡大した。
イスラエルの占領は国際常識に反するものとして非難が集まった。「イスラエル軍の撤退と引き換えに、イスラエルを認めること」という安保理決議が打ち出されたが、エジプトとヨルダン以外のアラブ諸国イスラエルが反対したため、状況は1982年まで続いた。エジプトのナセル(注5)は敗北したアラブに責任をとって辞任しようとした。

注5:ナセル
ガマール・アブドゥル=ナーセル(1918-1970)。エジプトの大統領。アラブ諸国のリーダー。アラブ諸国の統一(アラブ民族主義)を目指した。
ナセルがしたこと ①1952年のエジプト革命。②1954年にイギリス占領軍の全面撤退。③スエズ運河国有化。1970年、ヨルダン内戦のヨルダンとPLOの仲裁の最中で急死した。ナセルの葬式には500万人の葬列者が押しかけた。ナセルの死により、アラブ諸国統一の夢は遠くなる。大統領は盟友のサダトが継いだ。

 

○1973年 第四次中東戦争
(別名:アラブ側では「10月戦争」イスラエル側では「ヨム・キプール(ユダヤ教安息日)戦争」)
・交戦国
イスラエルアラブ諸国(エジプト・シリア・イラク・ヨルダン)
・きっかけ
第3次中東戦争で奪われた土地の奪回のため。
1973年10月にエジプトとシリアはイスラエルへ先制攻撃をかけた。
・結果
エジプトはシナイ半島を奪回出来なかったが、石油戦略(注6)によって停戦に持ち込むなど大局的に見てアラブ側の勝利に終わった。

注6:石油戦略
エジプト大統領のサダト(注7)は、戦争が開始された翌日に2倍に近い原油の値上げを一方的に通達し、イスラエルを支援するアメリカやオランダへの全面禁輸を実施した。石油ショックは国際的な影響をもたらし、1974年のアラファト議長(注8)の国連総会での演説を可能にさせた。

注7:サダト
ナセルを継いだエジプトの大統領。第四次中東戦争シナイ半島の奪回に失敗すると、一転してイスラエルとの和平交渉に乗り出し、1979年にエジプト=イスラエル平和条約(イスラエルの存在を認めた上で、占領地の回復を認めさせる)を結んだ。サダトイスラエルのベギン首相と握手をし、共にノーベル平和賞を受賞したが、他のアラブ諸国に図らず敵国イスラエルに乗り込むなどアラブにとっては裏切り者でしかなく、1981年に暗殺された。シナイ半島は1982年に返還された。

注8:アラファト
パレスチナ解放機構(注9)を率いた議長。イスラエルを攻撃した。
1974年のニューヨークの国連総会で演説した。「オリーブの枝と銃を持って、今日ここへやってきた。どうか私の手から銃を落とさせ、オリーブの枝を掲げさせてください」
1982年のレバノン内戦や、エジプトのイスラエルとの和平条約の流れの中で、武装闘争の路線を二国共存の方向へ変えていく。1993年のオスロ合意で、イスラエルのラビン首相と握手し、パレスチナ暫定自治協定を成立させた。

注9:パレスチナ解放機構PLO
1964年に設立したパレスチナの公的機構。拠点は初めヨルダンのアンマンにあったが、1970年にヨルダン内戦が起こり(=黒い9月)、拠点をレバノンベイルートに移した。1982年にはレバノン内戦でレバノンイスラエルが侵攻してきたため、チュニジアチュニスに移した。(初期の拠点がパレスチナ内ではなかったのは、パレスチナは独立国でない上にPLO武装組織だったから。)
PLOの主流派はファタハで主導者はアラファトPLOとは別にイスラム主義のハマスイスラム抵抗運動)とその武装集団カッサム旅団、イスラム聖戦がある。

 

○1975年〜1990年 レバノン内戦
・交戦
PLOレバノンキリスト教勢力(マロン派。注10)
・内容
レバノンは元からキリスト教徒とイスラーム教徒が共存する国家だった。1920年にフランスの委託統治領になり、43年に独立しても民族的・宗教的に複雑で、マロン派(キリスト教徒)とイスラム教徒は衝突していた。
第一次中東戦争パレスチナ難民が多数移住し、それは1970年にPLOの拠点がレバノンに移るとさらに加速した。PLOベイルートを拠点に、対イスラエル武装闘争を展開し、レバノンではPLO排除の動きが強まり、シリアも反PLOの立場で介入する事態になった。1975年にPLOキリスト教勢力の形で内戦になった。

注10:マロン派
レバノンで大きな勢力を持つキリスト教徒。アラブ人だが、親西欧の立場で、イスラーム教徒のパレスチナ難民と対立し、たびたび虐殺事件を起こしている。ファランジスト(注11)という民兵組織を持つ。レバノン内戦中の1982年、ベイルートの難民キャンプはイスラエル軍に包囲され、その中でファランジストによるシャティーラの虐殺(注12)が行われた。

注11:ファランジスト(=カターイブ)
レバノンにおけるキリスト教マロン派系の極右政党・民兵組織。正式名称はレバノン社会民主党である。レバノン独立を目的に1936年に結成。ドイツのナチスを模範としたファシズム政党としており、ナチスの突撃隊を真似た私兵集団を組織した。

注12:シャティーラの虐殺
1982年、レバノンベイルートパレスチナ難民キャンプで虐殺が起こった。キャンプの名前はサブラ・シャティーラ。3日間の虐殺については、芝生瑞和の「パレスチナ合意」p33を引用する。

イスラエルは"建国"はじまって以来の激しい国際世論の批判にさらされた。それはPLOベイルートを去ったあとに西ベイルートのサブラ・シャティーラ難民キャンプでおこったパレスチナ人の大虐殺で頂点に達した。難民キャンプはイスラエル軍により包囲され監視されていた。そして3日間キャンプが閉鎖されたなかで、イスラエル軍の協力者であるレバノンファランジストが3000人(すぐ集団埋葬されてしまったため正確な数字は不明)といわれる老人、女性、子どもを含む民間人の虐殺の下手人になった。当時ベイルートでは世界中の報道期間がこの戦争を取材するため滞在していた。虐殺直後のキャンプの様子は克明に報道された。かつてホロコーストの犠牲になったユダヤ人がつくった「民主国家イスラエル」というイメージの風化は、西欧において決定的になった。(パレスチナ合意 背景、そしてこれから/芝生 瑞和/1993)

そのときのことをジュネは「シャティーラの4時間」という本にした。

その時だった。家から出ようとする私を突然の、ほとんど頬を弛ませるような軽い狂気の発作が襲った。私は心につぶやいた。棺用の板も指物師も絶対に足りなかろう。それに棺なんかどうだっていい。死者は男女とも皆イスラム教徒なのだから屍衣に縫い込まれることになる。それにしても、これだけの数の死者を埋葬するには一体何メートルの布地が要るだろう。そしてどれほどの祈りが。そうだった、この場にかけていたのは祈禱の朗唱だった。(シャティーラの4時間/ジャン・ジュネ

 

参考資料:

パレスチナ合意 背景、そしてこれから/芝生 瑞和/1993
パレスチナへ帰る/エドワード・サイード四方田犬彦訳・解説/1999
パレスチナ芝生 瑞和/2004
・シャティーラの4時間/ジャン・ジュネ/鵜川哲訳/1987
・webサイト 世界史の窓 https://www.y-history.net/


(間違ってるところがあったら教えてください。)