4回の中東戦争とレバノン内戦をまとめたい。
○1948年 第一次中東戦争
(別名:パレスチナ戦争。イスラエルでは「独立運動」。アラブ側では「ナクバ(=大災害)」)
・交戦国
イスラエルとアラブ諸国(エジプト・シリア・イラク・レバノン・ヨルダン)
・きっかけ
1948年にイスラエルが建国宣言をしたことによって。建国やシオニズム運動に抵抗するアラブ諸国との間で戦争が勃発。
・結果
イギリス・アメリカの支援を受けていたイスラエルの勝利に終わった。
1949年に国連の仲介により停戦。イスラエルは国連分割案(注1)よりも広い土地を占領して独立を確保した。このとき休戦協定で定められた境界線をグリーンラインという。
注1:国連分割案(1947年)
パレスチナ問題を解決するための国際連合(注2)によるパレスチナ分割案。土地の57%をユダヤ人に。43%をパレスチナ人に。エルサレムは国際管理下に置くという提案だった。ユダヤ人は不十分ながら昔の約束(バルフォア宣言。注3)の実現を歓迎したが、アラブ諸国は反対した。
注2:国際連合
1945年に発足した国際機構。本部はアメリカのニューヨーク。
国際連合の理念の元になる国際連盟は1920年に発足した。本部はスイスのジュネーヴ。初期の常任理事国はイギリス・フランス・イタリア・日本。
"世界の警察"と言ったら、1945年まではイギリスのことだったが、それ以降はアメリカを指すようになる。
注3:バルフォア宣言
第一次世界大戦末(1917年)にイギリスがユダヤ人に対して「戦争が終わったらパレスチナの地にユダヤ人国家の建設を認める」と宣言した。
○1956年 第二次中東戦争
(別名:スエズ戦争)
・交戦国
イギリス・フランス・イスラエルとエジプト
・きっかけ
エジプトのナセル大統領がスエズ運河(注4)国有化を宣言したことによって。
衝撃を受けたイギリスはフランスに働きかけ、共同でエジプトに侵攻した。イギリスはスエズ運河会社の株主としての利益を失い、運河航行の自由がなくなることを恐れた。イスラエルはまだ領土を拡大する必要があった。
・結果
イギリスとフランスに国際的非難が寄せられ、国際連合の勧告により停戦。エジプトは戦争では敗れたものの、スエズ運河のエジプト国有化という実質的な勝利を収める。
注4:スエズ運河
スエズ運河は、地中海と紅海を結ぶ全長193km、深さ24m、幅205mの人口水路。当時は全長164km、深さ8m。
営業開始は1969年。運河建設にはフランスの外交官のフェルディナン・ド・レセップスが指揮を取る。イギリスは建設に一貫して反対だったが、実際運行が開始されると利用の8割がイギリス船だった。1875年、スエズ運河会社をイギリスが買収。その利益はイギリスやフランスの株主に分配し、エジプトにはわずかな利益しかもたらさなかった。
○1967年 第三次中東戦争
(別名:イスラエルでは「6日間戦争」)
・交戦国
イスラエルとエジプト、シリア、ヨルダン、イラク
・きっかけ
1967年6月にイスラエルが奇襲をかけたことによって。
エジプト、シリア、ヨルダン、イラクに先制爆弾を加え、スエズ運河に向けて進撃。旧約聖書ではカナンの地はエジプトのシナイ半島も含まれるというシオニスト改訂派の主張があった。
・結果
6日間でイスラエルの圧倒的な勝利に終わる。イスラエルは新たな占領地を獲得し、領土に加えた。①エジプトのシナイ半島②シリアのゴラン高原③ヨルダン西岸とガザ地帯。エルサレムも実効支配し、イスラエルの国境は拡大した。
イスラエルの占領は国際常識に反するものとして非難が集まった。「イスラエル軍の撤退と引き換えに、イスラエルを認めること」という安保理決議が打ち出されたが、エジプトとヨルダン以外のアラブ諸国やイスラエルが反対したため、状況は1982年まで続いた。エジプトのナセル(注5)は敗北したアラブに責任をとって辞任しようとした。
注5:ナセル
ガマール・アブドゥル=ナーセル(1918-1970)。エジプトの大統領。アラブ諸国のリーダー。アラブ諸国の統一(アラブ民族主義)を目指した。
ナセルがしたこと ①1952年のエジプト革命。②1954年にイギリス占領軍の全面撤退。③スエズ運河国有化。1970年、ヨルダン内戦のヨルダンとPLOの仲裁の最中で急死した。ナセルの葬式には500万人の葬列者が押しかけた。ナセルの死により、アラブ諸国統一の夢は遠くなる。大統領は盟友のサダトが継いだ。
○1973年 第四次中東戦争
(別名:アラブ側では「10月戦争」イスラエル側では「ヨム・キプール(ユダヤ教の安息日)戦争」)
・交戦国
イスラエルとアラブ諸国(エジプト・シリア・イラク・ヨルダン)
・きっかけ
第3次中東戦争で奪われた土地の奪回のため。
1973年10月にエジプトとシリアはイスラエルへ先制攻撃をかけた。
・結果
エジプトはシナイ半島を奪回出来なかったが、石油戦略(注6)によって停戦に持ち込むなど大局的に見てアラブ側の勝利に終わった。
注6:石油戦略
エジプト大統領のサダト(注7)は、戦争が開始された翌日に2倍に近い原油の値上げを一方的に通達し、イスラエルを支援するアメリカやオランダへの全面禁輸を実施した。石油ショックは国際的な影響をもたらし、1974年のアラファト議長(注8)の国連総会での演説を可能にさせた。
注7:サダト
ナセルを継いだエジプトの大統領。第四次中東戦争でシナイ半島の奪回に失敗すると、一転してイスラエルとの和平交渉に乗り出し、1979年にエジプト=イスラエル平和条約(イスラエルの存在を認めた上で、占領地の回復を認めさせる)を結んだ。サダトはイスラエルのベギン首相と握手をし、共にノーベル平和賞を受賞したが、他のアラブ諸国に図らず敵国イスラエルに乗り込むなどアラブにとっては裏切り者でしかなく、1981年に暗殺された。シナイ半島は1982年に返還された。
注8:アラファト
パレスチナ解放機構(注9)を率いた議長。イスラエルを攻撃した。
1974年のニューヨークの国連総会で演説した。「オリーブの枝と銃を持って、今日ここへやってきた。どうか私の手から銃を落とさせ、オリーブの枝を掲げさせてください」
1982年のレバノン内戦や、エジプトのイスラエルとの和平条約の流れの中で、武装闘争の路線を二国共存の方向へ変えていく。1993年のオスロ合意で、イスラエルのラビン首相と握手し、パレスチナ暫定自治協定を成立させた。
注9:パレスチナ解放機構=PLO
1964年に設立したパレスチナの公的機構。拠点は初めヨルダンのアンマンにあったが、1970年にヨルダン内戦が起こり(=黒い9月)、拠点をレバノンのベイルートに移した。1982年にはレバノン内戦でレバノンにイスラエルが侵攻してきたため、チュニジアのチュニスに移した。(初期の拠点がパレスチナ内ではなかったのは、パレスチナは独立国でない上にPLOが武装組織だったから。)
PLOの主流派はファタハで主導者はアラファト。PLOとは別にイスラム主義のハマス(イスラム抵抗運動)とその武装集団カッサム旅団、イスラム聖戦がある。
○1975年〜1990年 レバノン内戦
・交戦
PLOとレバノンのキリスト教勢力(マロン派。注10)
・内容
レバノンは元からキリスト教徒とイスラーム教徒が共存する国家だった。1920年にフランスの委託統治領になり、43年に独立しても民族的・宗教的に複雑で、マロン派(キリスト教徒)とイスラム教徒は衝突していた。
第一次中東戦争でパレスチナ難民が多数移住し、それは1970年にPLOの拠点がレバノンに移るとさらに加速した。PLOはベイルートを拠点に、対イスラエル武装闘争を展開し、レバノンではPLO排除の動きが強まり、シリアも反PLOの立場で介入する事態になった。1975年にPLO対キリスト教勢力の形で内戦になった。
注10:マロン派
レバノンで大きな勢力を持つキリスト教徒。アラブ人だが、親西欧の立場で、イスラーム教徒のパレスチナ難民と対立し、たびたび虐殺事件を起こしている。ファランジスト(注11)という民兵組織を持つ。レバノン内戦中の1982年、ベイルートの難民キャンプはイスラエル軍に包囲され、その中でファランジストによるシャティーラの虐殺(注12)が行われた。
注11:ファランジスト(=カターイブ)
レバノンにおけるキリスト教マロン派系の極右政党・民兵組織。正式名称はレバノン社会民主党である。レバノン独立を目的に1936年に結成。ドイツのナチスを模範としたファシズム政党としており、ナチスの突撃隊を真似た私兵集団を組織した。
注12:シャティーラの虐殺
1982年、レバノンのベイルートのパレスチナ難民キャンプで虐殺が起こった。キャンプの名前はサブラ・シャティーラ。3日間の虐殺については、芝生瑞和の「パレスチナ合意」p33を引用する。
イスラエルは"建国"はじまって以来の激しい国際世論の批判にさらされた。それはPLOがベイルートを去ったあとに西ベイルートのサブラ・シャティーラ難民キャンプでおこったパレスチナ人の大虐殺で頂点に達した。難民キャンプはイスラエル軍により包囲され監視されていた。そして3日間キャンプが閉鎖されたなかで、イスラエル軍の協力者であるレバノンのファランジストが3000人(すぐ集団埋葬されてしまったため正確な数字は不明)といわれる老人、女性、子どもを含む民間人の虐殺の下手人になった。当時ベイルートでは世界中の報道期間がこの戦争を取材するため滞在していた。虐殺直後のキャンプの様子は克明に報道された。かつてホロコーストの犠牲になったユダヤ人がつくった「民主国家イスラエル」というイメージの風化は、西欧において決定的になった。(パレスチナ合意 背景、そしてこれから/芝生 瑞和/1993)
そのときのことをジュネは「シャティーラの4時間」という本にした。
その時だった。家から出ようとする私を突然の、ほとんど頬を弛ませるような軽い狂気の発作が襲った。私は心につぶやいた。棺用の板も指物師も絶対に足りなかろう。それに棺なんかどうだっていい。死者は男女とも皆イスラム教徒なのだから屍衣に縫い込まれることになる。それにしても、これだけの数の死者を埋葬するには一体何メートルの布地が要るだろう。そしてどれほどの祈りが。そうだった、この場にかけていたのは祈禱の朗唱だった。(シャティーラの4時間/ジャン・ジュネ)
参考資料:
・パレスチナ合意 背景、そしてこれから/芝生 瑞和/1993
・パレスチナへ帰る/エドワード・サイード/四方田犬彦訳・解説/1999
・パレスチナ/芝生 瑞和/2004
・シャティーラの4時間/ジャン・ジュネ/鵜川哲訳/1987
・webサイト 世界史の窓 https://www.y-history.net/
(間違ってるところがあったら教えてください。)