遠浅

平野明

世界はもっと変わらないものだと思っていた

私は自分のことを頭の固い人間だと思う。自由であることを恐れている。言い伝えられたことわざを信じている。長く生きた人の言葉を聞きたいと思っている。老いた人は宝だ。生き続けることは才能だから。どの言葉も、持ち主の真実があると思っている。"若い時の苦労は買ってでもせよ"、"結局弱肉強食"、"同性愛は女だったらキレイ"、色んな人が色んな言葉を残していく。経験を持たない私は、ジャッジする前に全て保留する。

前の職場は師弟関係が厳しいところだった。弟子は私一人で、師匠は50も年上だった。尊敬する人のもとで働けることは嬉しかったし、働いてる自分を誇りに思えた。仕事もヘンテコでやりがいがあり、気に入っていた。
仲が良くなってくると、師匠は関係者に私を自分の彼女として紹介しはじめた。もちろん冗談だから、やめてくださいよと言うまでがお決まりだった。仄めかしのようにどこかの夫婦のYouTubeを見せられても、月2でドライブにいくことを強要されても、愛してるで終わるメールが届いても、あぁ茶番だとしか思わなかった。茶番で、老人は悲しいもんだな〜と思った。彼を尊敬する気持ちもまた真実だった。

深夜のタクシーの中、後部座席であばれても、あばれても押さえつけられキスされた時、自分の抵抗っぷりに一番自分で驚いた。反動でイヤリングを両耳無くした。あまりに幻滅して言葉もなかった。今日の時間、いや今までの時間全部が無駄に思えた。どっと疲れて玄関にくたばったままいると、母が出てきてどうしたのか聞いた。身体は洗っても洗っても汚かった。

次の日、なにもなかったかのように出社して、昨日みたいなことやめてくださいねというと彼は素直に謝った。けれど次の日、何か思い直したようだった。
「昨日の謝罪、撤回。俺はしたいときにする。」
「嫌です。怖いです。」
「だってしょうがないだろ。」
「そうやって関係を壊さないでください。2人しかいない環境だから意識して関係を守ってきたのに。」
「しょうがないだろ。」
「なにがですか?」
「生物学的に男と女なんだから。」

生きるってさいあくだなーと思った。震えの止まらない手で本社に電話をして、明日から私は出社しなくていいことになった。社長室に呼び出され、男性5人に囲まれながら、全て話さなければいけないのもまた地獄だった。カウンセラーを手配します、と言われて思わず聞いた。「女性ですか?」「男性です。」「では、結構です。」
私は仕事を辞めることになった。「あなたが一人残っても仕事場を回せないから。申し訳ないけれど。」と差し出された離職証の退職理由が”自己都合”で笑ってしまった。誰にも何も言わず、地元を離れた。風の噂では、あの若い人、体調が悪くなって仕事をやめたらしいよ。

半人前の自分が残ったとて職場回んないしさと言うと、絶対人は「確かに」と言う。仕事の未練を口にすると「分かるけど、波風立てなきゃ良かったのに」と言う。たかがキスごときだ、彼女役を引き受けていたら、いまごろ県大会のチーフぐらいにはなっていたのかもしれない。そんな妄想。私はとても世渡り下手。

今の仕事をはじめたばかりの頃、上司になぜ前の仕事をやめたのか聞かれた。「え、パワハラ? セクハラ?」言葉に詰まる。前の仕事の悪口は言わない方が好印象ってなにかで読んだな。でもなぜか言ってみる気持ちになった。「そうです」
彼女は最悪だと言った。訴えてやりたいとも言ったかもしれない。もし何かそう言うことがあったらすぐに言うように、とは確かに言った。えーとか、ひどいなーとかが関の山だと想像していたのでむしろこちらの方が面食らった。最悪って。最悪って言いすぎじゃない? いやでも、そう、最悪、最悪だった。本当に最悪だった。最悪ってずっと言いたかった。

SNSでいくら令和的な記事を読んでも、現実世界はずっと生ぬるく、岩のように変わらない。そういうもんだと分かってた。ひとりで血みどろになりたくなければ黙って雑踏に紛れることだ。だけどあの人は最悪だと言ってのけた。言ってくれた。世界はもっと変わらないものだと思っていた。

岩のように変わらないと私が言うこの世界は、でも私が作り出した世界だ。いつかつらい目にあった誰かに出会った時、それは最悪だときちんと怒れる自分であって欲しい。