遠浅

平野明

好きとかじゃないわよ。音楽は良いわよ。

そのときわたしは生ギター(エレキではなく楽器から直接音が鳴るギター)しか持っていなかったので、壁が薄い新居では室内で弾けず、しょうがないので早朝の川辺で弾くことにしていました。5時とかなら人がいなくて恥ずかしくないし、いくらヘタでも川の音がかき消してくれたからです。もう寒くてとてもできませんが、その朝が楽しみでした。
人が通りかかっていつものように手を止めました。聞かせたくないとかじゃなく、なんか散歩の迷惑かなと思って。でもその人は立ち止まり、もう少し聞かせてと言って演奏を促しました。下手だし恥ずかしかったんだけど真剣に弾いて、はじめてのお客さん、マダムみたいなマダムとそのチワワは最後まできいてくれました。持ち曲の全てを弾き終わったあと、川の音と拍手が気恥ずかしくて、音楽お好きなんですかと聞いたら、マダムは「好きとかじゃないわよ。音楽は良いわよ。」と答えて、わたしに新たな課題曲を与えたあと、朝のきらきらの向こうにチワワと一緒に歩いて行きました。

『好きとかじゃないわよ。音楽は良いわよ。』という言葉がずっと心で輝いてやまないのは、わたしが誰かに何かを言い切る力、日本語で伝える度胸をどこかで放棄してきたからだと思います。絶対なんて怖くて使えない。絶対なんて絶対ない。だからこそ、ふと出会った肯定の言葉によって出会い直したのだと思います。控えめに好きだと思っていたものに。
主観的なことを話したくない自分と、自分から放たれる言葉は絶対に主観である事実と、根本的な話したい欲求の拮抗で消失した言葉で、無音の中で生きてしまったわたしにとって、おしゃべりな人や、関西弁のシケってない感じはさわやかでとんでもなく好きです。『知らんけど。』なんか特に好き。他人から聞くとしあわせな気持ちになります。『知ってるわ。』これもいい。あと、『君は〇〇も知らないの?』構文も好き。過去、深夜のドライブ中に音楽の話になって、「君はミスター・ビッグも知らないの?」と言われたとき、ワクワクしすぎてこれから世界がはじまるのかと思った。脱線したけど、この知らんけど精神に習って、誰かに何かを言うことを怖がらない練習をしたいと思います。


(5月とか。)

私淑する橋本治が何かの本で、『生きてると人生がだんだん遊園地みたいになってくる』と書いていたような気がします。治ちゃん、わたしにもこんなに好きなものが、好きというか愛せるものが、人とか場所とか思いが増えるとは思わなかったです。ほんとに遊園地みたいだ。

『知らんけど』、人生は、愛するものを増やしてあらゆる愛を深めていくことだと思います。春にそう決めたので、教えられたので、平気でそう思っています。自分への愛、友人たちへの愛、恩師や上司への愛、仕事への愛、舞台への愛、自然への愛、故郷への愛、ギターへの愛(New!)、などなど。言葉を愛することはできません。わたしにとって愛とは言葉だからです。平気でそう思っています。

別に難しい話じゃなくていい。お弁当の中にお茄子があって、「あたし茄子好きなんだよね」と平気で言う人に、言える人にわたしはなりたいです。