遠浅

平野明

見えるものしか見えない

見えるものしか見えない。思い出せるものしか思い出せない。わからないものはわからない。何がわからないのか聞かれても困る。なにがわからないのかわかったらそれはほとんどわかるである。わたしは國分功一郎さんのスピノザを読む。國分さんという眼鏡をかけてスピノザを見ている。だから直接スピノザを見ているわけではない。いまのところの環境、バイアス、理解力のごたまぜのわたしのままこれを読む。もしかしたら今後、エチカとか読んじゃうのかな。だけどいつだって純粋にそれを読むことはできないことを忘れたくない。わたしはどんな本も読めません。どんな人にも会えません。どんな言葉も言えません。忘れないために書き留めます。

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〈note〉

スピノザは定義の定義を考える。例えば人間が「政治的動物(アリストテレス)」とか「ホモ・サピエンス(リンネ)」とか「ホモ・ファベール(ベルクソン)」とか人によって色々なのは、対象が持つ特性によって人間を定義しているから。スピノザの定義(物事の内的本質を明らかにするもの)の条件は、対象の発生そのものを描き出すこと、対象の原因を含み込むことだ(=発生的定義)。によって射程範囲がかなり広くなった。
この定義に基づきスピノザは人間の定義(=本質)を欲望とした。欲望の方向で人は女になったり男になったりする。古代ギリシアでは本質は形(エイドス)だとされていた。エイドスから本質を考えると、「男は男らしく女は女らしくありなさい」になる。エイドスは生物の見方が分類学的。コナトゥスは生態学的だ。
では神の定義とは何か? 「知性改善論」では神の定義は事物の定義の場合とは異なり、一切の原因を排除しないといけないと言われていた。対し「エチカ」は神もその原因によって定義される。
神の原因は神にある。神は生み出し且つ生み出される。神は自己原因として原因によって定義される。

スピノザ「短論文」でのみ扱われている主題がある。それが「悪魔」である。
悪魔とは何か。神と対立し、いかなる善も拒否するものである。
悪魔は存在するか。いやしない。存在には存在を維持する力(コナトゥス)が働くが、それは対象にとっての善である。悪魔はいかなる善も拒否する。よって悪魔は存在しない。純粋な悪魔がいるならそれは四角い円のようなものだ。存在とは善が含まれていることを前提とする。
人は時にありもしない悪魔を仮定する。それは自分が自分に要請するからである。しかし悪魔を仮定せずに済む生き方も可能である。その模索が「エチカ」である。

デカルトのコギト命題は三段論法だとスピノザは気付く。つまり「わたしは考える/故に/わたしは存在する」の「故に」は隠れた大前提を指している。「考えるためには存在しなくてはいけない(大前提)/ところでわたしは考えている/故にわたしは存在する」なんだ。スピノザは書き換えを提案する。「我思う故に我在り」を「我思いつつ在り」にする。により真理の「証明」という役割は「描写」という役割へ変更された。

ユークリッド古代ギリシア)の幾何学原論の様式を、哲学者且つ数学者だったデカルトは「省察」の「諸根拠」の様式にした。スピノザがこれを「エチカ」の様式にした。この様式こそ哲学的でありデカルトの歩む道だったと考えていた。

デカルトは証明方法は2つあると考えた。1・分析的方法(結果があり原因がある。)2・総合的方法(原因があり結果がある。ア・プリオリ。)デカルトは分析的方法のもとで「省察」を書いた。総合的方法は幾何学のみ可能だと思っていたから。
スピノザは総合的方法のもと、幾何学的様式で「エチカ」を書いた。人間のことでも総合的方法は使えると思っていたから。

スピノザデカルトの体系をより一貫したものにするための運動(デカルトのルールに乗り切る)の結果内側からスピノザ哲学が生まれたイメージを持った。ちょうど遠心力でボールがふっ飛ぶように。

「エチカ」冒頭の11の定理は、定理1〜定理8でひとつのまとまりになっている。「実体=自己原因」の結論を、発生の根源に向かいながら最短距離で出した。ドゥルーズはこれを系譜学と言った。遡行的性質はデカルトの分析的方法と似ているが、違うらしい。わたしは違いがわからない。ただ、全体の総合的方法のためにここだけ遡行するのは、わかる(冒頭の「定義」の定義が、発生的定義ではなく一般的に使われる説明であるように)。
実体には4つの特性がある。1唯一性(定理5)、2自己原因(定理6と7)、3必然的存在(定理7)、4無限(定理8)。色々あるけど主軸は自己原因みたい。定理9はひとつ山を登り切ったような雰囲気。山頂でビール(金麦/350ml)をあけるよう。いままで複数の実体についての話だったが、定理9〜11はひとつの実体についての話。

神はいるか? いる。神の定義は神の存在証明に優先する。つまり定義できれば存在する。それで定義できたから、いる。
神の本質(本質=能力=存在)とはなにか? 本質は、神のうちに想定される〈もの〉ではない。神が存在している事実〈こと〉そのもの。スピノザはどこかに存在しているはずの神の存在証明を行ったのではなくて、神が自然としてここに存在していることを「描写した」。
神の存在についての議論は「存在論的証明」と似ている。存在論的証明とは、「神は完全なのだから完全性には存在も含まれる、よって神は存在する」というトンチみたいな証明で、すでにカントに論破されている。なぜなら、神が「完全である」「永遠である」「無限である」とかいうのは、神の事象内容とは独立しているのであって、主語を存在させることはできないから。スピノザも論破されるだろうか? いやされない。論破される証明もない。スピノザがしているのは存在の描写だから。

定理8:すべての実体は必然的に無限である。無限とは何か? 
人間的な視点では、「どこまでいっても果てがない」と意味される。つまり「完成しない無限」。有限を否定する(「がない」)ために無限がある。数学でいう可能無限。
ここでの無限は、神の視点の無限である。つまり「完成している無限」。無限を肯定し(「している」)、否定としての有限がある。数学でいう実無限。
わたしは人間という有限な存在者なので外部がある。
     神という無限な存在者には 外部がない。
なるほど無限の場所の感覚が理解できたかも。つまり神は自分以外のものから影響を受けることがない。自身の法則以外のものに左右されない。神は永遠で、はじまりもおわりもない。
スピノザの神は宗教的な信仰というより自然科学的な発想にある。神即ち自然。でも神はフィールドではない。全てあるものが神のうちにある。あらゆるものが神の一部である。神は存在する唯一の実体である。わたしは変状(=性質や形態を帯びること)である。神の表現ともいう。名詞ではなく副詞のようなものである。わたしはなにかを説明している。「水は水としては生じかつ滅する。しかし事態としては生ずることも滅することもない。」(p.154)

スピノザ哲学は物理学にも化学にも精神分析学にも伸びることができるポテンシャルを持つが、スピノザは「倫理学(エチカ)」を目指す。第二部以降の論述の対象を「人間精神とその最高の幸福との認識へ我々をいわば手を執って導きうるものだけにとどめる」とした。

哲学の中で伝統的なテーゼに、思考と存在の同一性のテーゼがある。その歴史を振り返ってみる。
古代ギリシア時代のパルメニデスは「あるものはある。ないものはない。」つまり、存在しているものは思考可能且つ思考されている通りに存在していると考えた。
続くカントはこれを解体した。世界は思考されているようには存在していないかもしれない。(アーレントいわく、カントは「思考界の大破壊者。」)その直後、ヘーゲルによって同一性のテーゼは取り戻されるが、基本的にカントの説が20世紀は有力だった。最近は思弁的実在論という新たな哲学潮流がこの同一性のテーゼを復権させつつある(メイヤス)。
特筆すべきは、この荒波の中でスピノザはこのテーゼに「並行論」という一つの完成をもたらしたということだ。

「平行論」。観念と事物は完全な対応関係にある、平行にあるというわけだ。たとえ実際にさわれない存在についても観念の連結さえ適切に行えば存在に迫れる。(ちなみにこれはライプニツによる命名である。)
スピノザは「人間の精神についての3つの原理」の1つの目にこれを書く。あらゆる存在にはそれに対応する観念がその存在の精神として存在している。「あらゆる」とあることから、動物にも精神を認めていたことが分かる。(デカルトはこれを認めていなかった。動物は機械であり、人間は身体という機械を精神で動かしている存在だと考えていた。by.デカルト「人間論」(完全な医学書))

「身体は本性を異にする極めて多くの個体から組織されている」とスピノザは人間の身体の複雑さを強調する。だから人間精神も同時に複雑なのだ。身体=精神なのだから。

人間精神は身体の観念であるが、人間精神は人間身体を認識しない。認識とは、観念を獲得することだ。「観念であること」と「観念を有すること」は違う。赤子は精神を持つが、身体を十分に認識していないため自らの身体をうまく使用することができないように。

我々が身体を認識できるのは身体に生じる差異によってだ。差異の経験によって自らの身体を認識していく。……あ。痛い。腕だ。ぶつかった。ドアノブにぶつけた腕が痛い。(by わたし)
精神が身体について認識するのは、身体に起こることだけである。ゆえに観念もそうである。我々は差異によって〈身体ー観念〉を有する。
人間身体の変状の印象は、自らの身体の特徴と外部からの刺激の特徴が混ざり合い、混乱している。身体の変状の観念を「前提のない結論のようなもの」という。
〈身体ー観念〉の初期状態は前提無しで結論を与えられるような状態だ。

自由意志はあるか? ない。
虚偽の観念は、観念の混乱や欠如のゆえに虚偽である。
人間は自らの自由意志によって行為しているという「意見」。これはまさしく虚偽である。なぜなら原因についての認識の欠如に基づいているから。

多元的な、無数の原因によって身体の変状というものがあり、行為が意識できるのは、変状という結果だけだ。行為は結果の原因を知ることはできない。いつも結果の中だけで原因を知る。
変状(結果)が引き起こした衝動を自由な意思と思い込む。だから意志が何の前提もなく、自然発生したように思ってしまう。

「自由意志」は冗漫な言葉だ。自由とは純粋に自発的であるということか? 自らの意思こそが自らの行為の原因である……いやいや、心には過去があり、周囲には現実があるではないか?

"では我々は意思などないロボットみたいな存在なのか? ではこの確かにある思いはなんなのか?"
大丈夫、ロボットではない。そもそも、意志と意識を間違えてる。

"アリストテレスが説いた目的原因説。あれもだめか?"
違う。たとえば、この本を読む原因が、スピノザを理解したいと思うからという目的にあると主張するかもしれない。だがその目的もさまざまな原因によってもたらされた結果である。物事を深く考えたい性格が、幼少期からの様々な出来事が、本を読むための日本語の教育が……∞、その目的を作っている。
すでにこの「目的論」は批判されまくってもはや陳腐な話題だ。だけど、批判するのは簡単じゃないというのがスピノザ。私たちはあらゆるものが目的によって動いているわけではないと知っている。にもかかわらず、「見るための目」「咀嚼するための歯」などと言う。ほら。もう目的論じゃないか。見ることは目の目的ではない。咀嚼することは歯の目的ではない。目的論批判という一言で何かを言った気になっているなら、スピノザ哲学から最も遠いと國文さんは言う(ひゃあ)。

いくら目的論批判なる学説を知っていても、何度も原因と結果を取り違える。意識は因果性を目的性へと変換し、原因と結果を転倒する。「人間は常に目的原因のみを知ろうとし、それで満足する。」無意識に。(はい出ました無意識!)

無意識という言葉は精神分析学の言葉だが、スピノザ的には、意識されない諸原因の連鎖、原因の混乱した認識のことを言う。(行為は原因を知らないが、原因のない変状はないことから原因の存在を行為は知ることができる。)
「意識は原因について無知である」確かに意識は原因について知らない。では意識は無知なのか? 意識はなにも知らないわけでもなにも知り得ないわけでもない。意識は目的を知っている。
意識にとって知るとは、目的を知ること、目的を通じて知ることだ。意識は原因ではない。しかし目的に結びつける。意識は意識を持つ存在を積極的に定義する。

スピノザは認識を3種類に分けた。
第一種認識→自らの身体の変状の観念を基礎とする。
第二種認識→理性。共通概念によって推論を行う。(理性は二位においた。スピノザ的に身体に立脚しない認識は最高度の認識とはいえないと言うことだ。)
第三種認識→直感知。

エチカ第二部は科学的に人間の心身を記述したものだったが、第三部では人間の生が目指すべき方向が示される。単に感情の種類が提示されるだけではない。感情とは身体の変状であり、同時に観念だ。

コナトゥスについて。
個体が自らの存在に固執しようとする傾向性をコナトゥスという。「固執しようと努める努力(コナトゥス)はそのものの物理的な本質に他ならない」。存在する=コナトゥスがある。現代生物学の恒常性(ホメオスタシス)と意味は同じといっても良い。

なぜ人間にはコナトゥスがあるのか? その個体を生成させ存在させる方向に向けて原因が一致して働きをなしていたから。としか言えない。つまり説明できない。そこに意志などない。

どんな存在にもコナトゥスがあるなら、なぜ自殺が起こるのか? コナトゥスは働くが、外部の原因が圧倒的だから。それは自殺ではなく他殺である。「いかなるものも、外部の原因によってでなくては滅ぼされることができない」。老いや死も基本的に外的なものとして置いている(そしてそれは大体合っている。)

スピノザは、精神を動かす力として捉えられたコナトゥスを意志といい、
精神と身体を動かす力として捉えられたコナトゥスを衝動といった。そして衝動に意識が伴ったものを「欲望」といった。

人間の基本感情3つは、「喜び」「悲しみ」「欲望」だ。
「喜び」 感情のプラスの方向性。
「悲しみ」感情のマイナスの方向性。
「欲望」 感情の推移そのもの。
喜びが増えれば活動能力が上がり、より大きな完全体になる。悲しみが増えれば活動能力が下がり、より小さな完全体になる。スピノザ哲学は、活動能力の増大の方向を目指すことからしばしば「喜びの哲学」と言われるが、ヘドニズム(快楽主義)ではない。

喜びを増やすにはどうすればいいか? それは自由であること。
自由の状態とは何か? 必然性に従うこと。与えられている条件のもとでその条件に従って自分の力をうまく発揮できること。(「条件がない=自由」ではない。)
自分の心が原因になること。(しかし「自己責任」とは違う。)
不自由の状態とは何か? 不自由とは強制。心身の条件が無視され、外部の原因によってコナトゥスが圧倒されている状態。外部の原因に支配されていること。
さて、どうすれば自由になれるか? つまりどうすれば能動的(自分が原因)になれるか? 
能動とは何か? 自らの行為において自分の力を表現していること。
受動とは何か? 自らの行為において他人の力を表現していること。
"我々は全てが受動的な存在ではないか? 行動は刺激を受けてそれを成すように決定されることによってであるのだから。"
単に行為の方向で受動と能動を定義するのは不十分である。わたしがカツアゲされたとして、脅しのままに金をポッケから出した私の手は能動的と言えるだろうか? その行為は誰のどのような力を表現しているのかを見つめる。原因は結果を引き起こすというより、結果の中で原因を知る。

受動を考えるために、スピノザはねたみの分析をしている。「何びとも、自分と同等でないものをその徳(能力)のゆえにねたみはしない」。つまり、人は自らと比較可能なものに対してのみねたむ。
ねたむ人間はなぜ受動と言えるのか? 見返してやろうという強い活動の発生もあり得るが、その行為は他人の力の表現であるから。
受動のもたらす喜びもあるが、しかしそれは不安的なものである。

完全な受動も完全な能動もない。悪魔が存在しないように完全な受動は存在しないし、完全な能動は原因がいくらでも遡れてしまう。程度の中で、能動的な部分を増やそうというのがエチカである。

……国分さんのすごいところ、そしてえらいと思わずにはいられないところは、実戦の人スピノザにならって、本書の構成をエチカ執筆の時間の流れにならっているところだ。スピノザはエチカの執筆を一時中断し(1665年)、「神学・政治論」の執筆に取り掛かり、出版も含めた4年を経て、再度エチカに取り掛かったのだが、國分さんも4章までエチカの読解に割き、5章で「神学・政治論」を挟み、6章でエチカに戻っている。

(一緒にスピノザを経験してみようと誘ってくれたのに、しかし私は早くエチカの続きを聞きたくて聞きたくて、目がずるずる滑ったまま5章……聖書の部分を通過してしまった。6章に行こう。)

(6章を読み終わり帰宅した今これを書いている。この感動をなんと言ったらいいのだろう? 涙なしには読めない。ドトールを出たら夕暮れで、ファンシーピンクなちぎれた雲がスローモーに空の高いところを動いているだけで胸がいっぱいになった。「作品がおもしろくて私はしあわせ。」良い作品の存在を知ると言わずにはいられないこの言葉の指すところの輪郭線を、はっきりと濃くなぞってくれたようで。私のノートなんていいから本書を読んでくれと言いたい。この感動、國分さんの言葉を読みながら包まれていく感動を分かち合いたい。)

意識とは何か? 意識とは何なのかまだ分かっていない。(ここで私はわからないことがまだあるっていう驚きと、わからないものはわからないを体験することになる。自然状態での意識の概念がまだ作れていないっていうこと。)
私に分かったのは。意識は認識でないこと。意識は身体精神ではないこと。意識は身体が死骸になれば消えること。

 

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読んでる本 スピノザ 読む人の肖像/國分功一郎岩波新書

読んだ本 100分de名著 スピノザ エチカ/國分功一郎