「何を書き、どう表現するか」ではなく「書く私とは何か」の問いからしか書かなかった小説家がいる。名前は李良枝(イ・ヤンジ)。1955年山梨県に生まれ、韓国人の両親を持つ。
彼女の作品では同じ設定が繰り返し使われる。たとえば、ソウル大学に留学した在日韓国人女性。帰化に反対していた兄の死。両親の不和。お琴(カヤグム)と踊り(巫俗舞踏)。二重に捨てられた感覚。母国語へのアレルギー反応……。どの作品もひとつの世界を違う場所から切り取ったようで、特に初期作3つ(ナビ・タリョン/かずきめ/あにごぜ)は頭の中で混じり合う。
エッセイを読めば作品に書かれていることはほぼ作者が現実で経験したことだと分かる。小説に照らし合わせてみるとむしろエッセイでは書ききれない部分を小説にぶつけている。小説を読みおどろき、エッセイを読みおどろきと、読者は二重に李良枝の生きざまにおどろく。
李良枝が人生を切り売りしてるタイプの小説家だとは思わない。彼女の作品は、自分のルーツを理解するために必要な活動のひとつとして書かれた。韓国へ渡り、琴を弾き、舞踏を習うように文章を書き始めた。そこに彼女の人生への誠実さがある。書くことの起源を感じる。
自分の人生に誠実でいることは誰だってほんとうに難しい。李良枝だって、持って生まれた権利や構造の不平等さを受け入れたら(諦めたら)もっと違う人生があったはず。だけど彼女は正直だった。義しさ*1が命を動かし続けた。高校を辞めて京都で下宿した。大学は1学期で辞めてしまった。日本企業に勤めないと決めた。ハンストもしたしヘップ工場でも働いた。踊りもお琴も習った。韓国に行って現実を見た。10年韓国に住み続けた。
ないものがある(見えないものが見えないまま見えるようになる)と定義できるのは言葉だけだ。だから李良枝は最初から作家になる人だった。その一方で、表現者である以前に2つの母国を持つひとりの女の人生を当事者として生きたいという気持ちがお琴や舞踏にも結びつけた。たくましい両輪で練り上げられた文章は、これが机の上で書かれたとは信じられないほど強く匂い立つ。読書という鮮烈な経験がある。
最初に読むならもちろん由煕(ユヒ)がおすすめ。母語と母国語がテーマのこの作品、言語の問題を抱えた人に刺さるはず。下宿先の岩山や、由煕その人の描写には胸をえぐられるものがある。自分の中の特別な作品になった。
個人的には、かずきめとあにごぜも好き。形式の意識が強いし一発書きの強さがある。かずきめは海女、あにごぜは兄貴のこと。亡くなった姉と兄についての小説で、2つは並べると響き合う気がする。この3作ともいまここにいない人のことを書いている。
李良枝、誰かの特別な人になると思う。読んでみてほしい。
*1:ただしさ。李良枝の「石の聲」から。”言葉自らの力が、当てはまる漢字を探し出した。ただしさ、は、正しさ、でも、貞しさ、でもない。義しさ、と書くしかないという思いは変わらない。”