遠浅

平野明

コトバという自然

若いころモダンダンスの修行のためにヨーロッパへ渡り移住したダンサーが、いまはコンテンポラリーダンスをしているというので、コンテンポラリーダンスってどんなですか、と聞いたことがあった。そのひとは、自分からなにかをしようとしないことかな、テーマにするのは自分より環境のほうで、例えばテーマを重力にするなら体を重力に動かされるままにしておくんだけど、環境にゆだねた動きはどこかで必ずぴたっと止まるときがあって、止めようと思っていなかった体が止まったことに自分で驚くのが大事。と手振りまじりで教えてくれた。

富岡多恵子の当世凡人伝という短編集にある、ワンダーランドという一編を読みながら、そのことを思い出したのだった。というのは、この話があまりにかろやかなダンスで、言葉という自然(環境といってもいい)に書かされてるように感じてならなかったから。ワンダーランドを読みながらわたしは想像する。作家・富岡多恵子がペンをとったときにはまだ人妻の美々子の書かれる予定はなかったんじゃないか。ミノとルイの心理に入り込めないひとが登場できたらいいけどそれが清潔でかわいそうな女だとは知らなかったんじゃないか。
ト書集という富岡多恵子のあとがきを集めた本のなかにすでに、書きたいという気持ちはなにか、という内容のエッセーがあった。自分は職業だから書いてるけど、書きたい、表現したいって気持ちはなんなんだろうな、と富岡多恵子はいうので、改めて彼女の、言葉に書かされる力、言葉のうなりを聞く詩人としての能力に恐れ入ってしまう。

小説には小説という自然が、日本語には日本語という自然があることに、わたしは最近気づきつつある。こういう設定で、こういう人が出てきて、こういう起承転結にしたい、と作者は妄想するものだけど、もしかしたら一行目を書いたときに作品は独自の命を持ち始めているのかもしれない。そして言葉は、言葉の自然でもって作家の書きたいことや表現したいことに反乱を起こすのだ。小説に「意外な展開」はない、自然なことしか起こらない。というのはわたしのパートナーの言葉でもある。

……わたしは想像する。坂道の半ばを転がり落ちるオレンジ色のピンポン玉を。小石の前では跳ね、軌道を変え、またころころ転がって、側溝のどぶに落ちるか子どもに捕らえられるまでコンクリートの上をふらついているピンポン玉を。