遠浅

平野明

やさしいレナ

富岡多恵子訳のガートルード・スタイン「三人の女」に収録された3つ目の短編「やさしいレナ」がいい。

主人公のレナは我慢強く、やさしくて気立てのいいドイツ娘だった。他の女中たちも、単純でやさしいレナのことが好きだった。そのうちの2、3人はいっしょになってレナを意地悪して困らせたけれど、それでもレナはこの生活すべてが楽しかった。だけどレナは知らなかった。自分がこの女中仕事を好きで、楽しいことを自分でよくわかっていなかった。そのうち、伯母のいいつけでレナは仕事をやめた。親戚の用意した男と結婚して家庭に入ったレナは、なにか悲しく弱っていったけれど、それがどうしてなのか自分で分からなかった。かわいそうに、レナはあまりに弱ってしまい、こなければよかったと思うことさえできなかった。「レナ、あの連中はお前に満足にものも食べさせてないんだろう、お前が本当にかわいそうでならないんだよ、レナ、わかるだろう、レナ。だがね、それはたとえお前がそんないやな目にあっているとしても、なにもそんなにだらしなく歩き回っていていいということじゃないんだよ、レナ」と、いまもレナを叱ってやり、会いにくるようにさせていたのは、女中時代のドイツ人の料理女だけであった。レナは子どもを3人産み、4人目の出産のときに子どもと共に死んでしまったが、レナがどうしてそんなことになったのか誰にも分からなかった。

 

同じ一行を全く変えないまま文章に差し込みまくるという、おきてやぶりで自閉症的なガートルード・スタインの手癖は、どこまで読んだか分からない本をいつも同じページで開いてしまうような、安心感とひとの恒常性のかなしさを感じさせるようなグルーヴがある。そして、作者の特権でもって登場人物の知らぬことを「彼女は知らなかった」とガートルード・スタインが書くとき、その声が彼女らに届かないことがかなしくてならない。ふと思い出すのは哲学のことで、この学問の目的がむかしの哲学者を理解することにあるのではなく、哲学者自身には見えなかったけれど確かに内包していたものを新しい人がひらいていくことにあるなら、この作者は似た能力を使ったのかもしれない。彼女の知らないことを「知らなかった」と書いてやることで供養できるたましいがある。

 

レナは自分がそういうことが好きでないのを本当には気づいていなかった。自分がいつも夢みたいで心が留守になっていることに気づかなかった。彼女はそこから離れたブリッジポイントでの生活が自分にとって違ったものになるのかどうか考えなかった。ミセス・ヘイドンは彼女を連れてきて、今まで着たこともないような服を着せ、それからいっしょに汽船に乗せた。レナは自分の身に起こったことがどういうことなのか、はっきりわからなかった。