ここ最近、松本清張(1909〜1992)ばかり読んでいる。期待以上におもしろい。まだ全作品のひと握りも読んでいないけれど、すでに清張沼に足を取られつつある。長編3本と短編10数本読んだだけでも、若々しい筆の躍動感と、老成した博学な知識の、ある意味だれにとっても理想的な調和を堪能することができた。文章にせせこましいところがなく、広大な雨林の中で息をついているような感じにさせられた。そういうスケールの広さがあった。
長編は「黒革の手帖」「けものみち」「わるいやつら」の順で読んだ。どれも面白かったけれど、この中で一番最初に書かれた「わるいやつら」が文章のユニークさでは輝いていた。上巻から少し抜き出してみる。
下見沢は辺りの景色を眺めて云った。
古い墓場にも木立ちにも、夕方の光が萎み、蔭に闇が這い上がっていた。(403頁)
戸谷は、血管をやさしく圧した。小鳥の胸毛を思い出すようなふくよかな咽喉だった。柔らかい弾みのある皮膚に、二つの細い山脈が走っている。(500頁)
読んでいると、清張の世界の平衡感覚を信じたくなる気持ちが起こる。平衡感覚というのは言葉の通りで、上下左右の表すもの、つまり水が沸けば気泡が水中に浮かび上がるみたいな物理法則が人間関係から天気の移り変わりに至るまで、世界を覆っているという感覚を、張り手を食らうように清張から教えられるのだ。この世界では主語は人間から抜け出て、もっと自然の方へ「陰に這い上がる闇」の方へと味方する。
清張の作品には女がたくさん登場する。「わるいやつら」では槙村隆子というデザイナーの女がひときわ目立っている。経済力と美しさを備えており、野心家で、その後の「黒革の手帖」の元子につながるような冷たさを持っている。身につける洋服や和服は毎度はっとするほど美しく、斬新で、ギラギラしている。一度は女が夢見る女というか、高いヒールを履いて男を蹴散らしていく気高さがあって、巨大なオパールを首から下げても負けないような強さに、槙村隆子の足元から沸く風圧に、読みながらクラクラしてくる。
葬送のフリーレンが今年ウケたみたいに、ローテンションはいまの時代の気分だと思うけれど、清張の描く大人たちの血みどろの戦いは読んでいて気持ちがスカッとする。バカだなあ、そんなことしたって何にもならないのに、とは思わない。大きな学校を作りたい、東京の銀座で一番になりたい、男に反省させたい、そのためならなんだってする。そういうむき出しの野心に、心の深いところがくすぐられる。