遠浅

平野明

わたしたちのファミリー

松浦理英子の「最愛の子ども」を読みました。いや〜〜〜。すごかった。すごすぎて文藝春秋の感想フォームに感想書いて送っちゃったもんね。

タイトルから家族の話なのかなと思っていたけれど、家族は家族でも、女子高生たちの創造する擬似的な家族の話だった。日夏(ひなつ)がパパで、真汐(ましお)がママ、その子どもで王子さまなのが空穂(うつほ)。この3人家族は、玉藻高校のある女子クラスの公式ファミリーとして存在し、クラスメイトの〈わたしたち〉人民に見守られながらロマンス(=人間関係)を変容させてゆき、その軌跡は〈わたしたち〉によって伝承され、語り継がれて物語になるという、なんとも凝った構造の絵巻物のような小説だった。高校とはひとつの王国のことだけど、それを〈わたしたち〉という主語で表現できるなんて知らなかったし、松浦理英子まじすごい天才。この本がイタリア語訳されたのも、さもありなんというか、みんなで神輿をわいわい担いで森の中をすみずみまで歩き回るような賑やかさがあるからきっと売れるだろうなと思う。絶対売れていてほしい。

一人称複数の〈わたしたち〉に語らせる文体に、わたしがまっさきに思い出したのはレベッカ・ブラウンの「悲しみ」という短編だった。同じく〈わたしたち〉が主語なんだけど、〈わたし〉ではなく〈わたしたち〉という言葉が持つ潜在的な能力を(それが何なのか分からないままに)レベッカ・ブラウン自身が信じて追いかけていく、暴こうとする筆跡が面白くて好きな作品なんだけど、この〈最愛の子ども〉の〈わたしたち〉はむしろ意味が広がらないよう、抑制のために使用されているように感じた。『わたしたちは小さな世界に閉じ込められて粘つく培養液で絡め合わされたまだ何ものでもない生きものの集合体を語るために「わたしたち」という主語を選んでいる。』という宣言にあるように、クラスの全員がしっかりと手を繋ぎあって公認ファミリーを鑑賞することを、自身の成長や変容を見つめるかわりにしている。しかし、他人の噂話に没頭することで自分の存在を一旦保留にしている〈わたしたち〉だからこそ、最適な主語としてファミリーを語り尽くすことができるのである。たとえファミリーのゴシップを目撃した人民がひとりきりでも、噂は〈わたしたち〉の隅々まですばやく行き届くからもはやひとりとはいえないこの集合体だからこそ、読者の我々は閉じられたファミリーの様子を取りこぼすことなく、さまざまな角度から知ることができるのだ。

真汐(ましお)のことを書いておく。真汐はファミリーのママにあたる人物で、頑固でプライドの高い性格はむしろ父親のようにもみえるけれど、パパの日夏がひとを従わせるカリスマ的な甘やかさを無自覚に持つゆえに、相対的にママになってるところなんかは本当に〈ママ〉だと思う。ファミリーと〈わたしたち〉が高校卒業するまでを書いている「最愛の子ども」だが、後半になってなんとなくファミリーに遠さを感じるようになる真汐はこう考える。

わたしは日夏とも空穂ともいつでも離れられるように心を鍛える。生涯たった一人でも生きて行けるように心を鍛える。わたしはわたしの中に生まれるわたしを弱くするどんな感情にも欲望にも打ち勝ちたい。やがてわたしの心は何があっても壊れないほど強く鍛えられるだろう。

ある予感に怯えたり、他の人にはあって自分にはないものに対して傷つくナイーブさを持ちながら、それを決して他人には見せない心の鎧の厚さに思春期の苦々しさが詰まっている。意固地ゆえにいろんな人と衝突して、暖かさに素直に手を伸ばせない柔らかい精神への救済として、松浦理英子が差し出したのが「空穂(うつほ)」という子どもだった。空穂は非常に受動的でかわいらしいものとして描かれていて、それゆえひとを能動的にさせる力がある。これが真汐のような人間に与えられた愛の方角、唯一まっすぐに手を伸ばせる相手、無条件に愛すことのできる対象であり、最愛の子どもなのである。ここでタイトルの意味が浮かび上がってくる。

正体不明の鳥のさえずりのような〈わたしたち〉のおしゃべり。伝言と空想でつむがれたファミリーの物語を、引き裂いていくような現実の家族の介入、それもまた物語に組み込んでゆく〈わたしたち〉の語りのすばらしさ。ほんとにミラクルに面白かった。宝物のような本だった。宝物になった。