遠浅

平野明

裏ヴァージョンの名言

松浦理英子「裏ヴァージョン」がむちゃむちゃ面白い。屈折しすぎて屈折した読者にしか見えない輝きが込められている。あまりに名言の宝庫なので個人的なツボを書き出してみたくなった。頭に振られたP+番号は筑摩書房の単行本版のページ数で、「鑑賞」はわたしの鑑賞メモである。ネタバレ含みまくりだからこれから読む予定のある人はお帰りください。

P25

わたしにとってエディっていうのはたぶん、一般的な夫とか恋人よりもずっと近しい存在なのよ、何ていったらいいのかずっとわからなかったけれど、この頃やっとこれかなっていう表現が見つかった、一度エディがニューヨークに来てこのフラットの別の部屋に泊まってた時に、ついサドの白人女を連れ込んだことがあったの、もちろんその晩やるつもりなんかなかった、ところがその女はとっても強引で、何のかんのうまいこと言ってわたしを縛り上げちゃったのね、それで無理矢理わたしが全然好きじゃないことをしようとしたもんだから、思わず「エディ!」って呼んで助けを求めたの、エディは飛び出して来てその女を突き飛ばしてわたしを縛ってるロープをほどいたわ、で、呆然としてる女にどことなくハードボイルドに「失せな」なんてすごんじゃって、女があたふた消えた後は二人で手を取り合って大笑いよ、「あんまり危ないことをするなよ」って注意もされたけど、その時よ、「この人、共犯者みたい」って感じたのは。

(鑑賞:前半の英米風小説の一節。一息で書いてるのがホントにすごい。全速力なのに足が絡まってない。かっこいい。)

P32

帰り道、近所のコーヒー・ショップに寄ろうとしたら、同じアパートメントに住む顔見知りの若い女性が道路に面したカウンター席で一心にノート型パソコンのキーを打っているのがガラス越しに眼に入り、お互いに気がついて挨拶を交わさなければならなくなるのは億劫なので、十メートルばかり引き返して別のコーヒー・ショップに入った。

(鑑賞:わかる。引き返したの相手にバレたら気まずいけどね)

P58

トリスティーンはゴキブリが大の苦手だった。もちろんトリスティーンはゴキブリよりも強いので叩き殺してしまうのだが、叩き殺すまでに動揺を鎮め恐怖を克服し勇気を振り絞り決心を固めるという一連の段階を経なければならず、その過程での表情や動作の移り変わりを眺めるのが面白くて、グラディスはゴキブリなど怖くもないが決してトリスティーンの代わりにゴキブリを退治してやろうとはしないのだった。

(鑑賞:ゴキブリの話ってなんでこんなに面白いの? 私が小説を書くことになったら絶対にゴキブリの話を書こう。) 

P62

「トマト・ケチャップ」、トリスティーンが言う、「マヨネーズ、サウザン・アイランド、ホット・ドッグ」、これらはみんなトリスティーンの嫌いな物で、トリスティーンにとってはこうしたことばが英語の最大の罵倒語なのだった。「コーラ、ハンバーガー、ディズニー・ランド、ハリウッド・ブールヴァード……」

(鑑賞:おおお!素敵。こんど人を罵倒する時に使いたい!)

P63

トリスティーンは公園に出かける時にはいつもパンを持っていて、ベンチでワインを飲む間も鳩にちぎったパンを投げ与える。池のほとりでも小さく丸めたパンの白い部分を鴨に与える、が、そのうちに言い出した、「動物と遊ぶのに餌をやることくらいしかできないなんて」、グラディスは訊いた、「何をして遊びたいの?」、「撫でたい、じゃれ合いたい、顔を憶えてほしい、呼べば寄って来てほしい」、「犬や猫じゃないと無理ね」、「せめてついて来てほしい、並んで進みたい、わたしは池のへりを歩いて、鴨は水の上を滑って」。童話じゃあるまいしと言おうと振り向き、残り少なくなったパンの白いところを一心にむしっているトリスティーンの向こうに見えたものにグラディスの胸は高鳴った。グラディスはトリスティーンの腕を叩いて見るように促した。一羽の鴨がトリスティーンの後をついて泳いでいたのだった。勘違いではなかった。その鴨は見つめても怖がらず、二メートルは二人と一緒に池べりに沿って進んだのだから。

(鑑賞:美しい。暗誦したいぐらい良い。トリスティーンが出てくる話わたし大好き。)

P68

記憶に残るアメリカン・セックスその一。ごく初期の間違い。たぶんサディストだろうと見込んだ相手がものやわらかな愛撫ばかり続ける、その愛撫というのが執拗でものやわらかなのにどこか押しつけがましくて、同じ所を長々と撫でられているとだんだん刃先の鈍ったナイフで皮膚をこする拷問を受けているような気がして来て、こういうやり方は好みじゃないと伝えるとじゃあどういうのがいいのかと訊くので、思いきりよく打つなり噛むなりしてほしいと言ったら、自分はサディストなんかじゃない、SMは人間の尊厳に対する侮辱だから大嫌いだ、帰ってくれと夜中なのに有無を言わさず追い出され、トリスティーンの方ではあんたのセックスは絶えず「これが優しさの表現です」と宣言してるみたいで政治的に正しいつもりなんだろうけど、実際のところは想像力不足でひとりよがりだと言い捨ててやりたかったけれども、黙って帰った。

(鑑賞:「記憶に残るアメリカン・セックスその一」フレーズがオモロすぎて無理。読んでいるとサディストに対して真っ当にムカついてくる不思議。しかしなんて胸がスーッとする文章だ)

P72

グラディスは本質的に優しい人間で、性的な場面で暴力的になるのも優位に立ったりとか全能感を味わおうとするのではなく、たぶん相手を慈しみたい、かまいたいという感情が過剰に表現されるからだろうと、今のトリスティーンは素直に理解している。

(鑑賞:グラディスという人間像にSの理想が詰まってる。いや、松浦理英子SM論でいえばMに対してM’という役を演じてくれるやさしい人間というべきか。)

P129

「あなたはガラスの向こうでいじけて下を向いてて、こっちが一生懸命ガラスを叩いて呼んでもちっとも振り向かないから『だめか』と思って行こうとすると、途端に駆け寄って来てガンガンガラスを叩いて引き止める」

(鑑賞:わかる。もちろん「いじけて下を向いて」る方への共感ですが。)

P140

さて本腰を入れて新種のポケモンを探そうとあたりを見回すと、いかにもポケモンがひそんでいそうな枝ぶりの若木があるのに気がつく。すでに捕まえて飼い馴らし旅の道連れにしたポケモンにあの木を揺さぶってもらえば、未知のポケモンが落ちて来るかも知れない。木を揺する枝を憶えているポケモンがちゃんとついて来ているのを確かめてから、まっすぐに木に向かって歩き出したその時、突然前方の草叢が大きく揺れ、一匹のポケモンが緊張した吠え声を上げて飛び出して来る。驚いたトキコは後ずさった拍子に尻餅をついてしまい、パンツの尻全体にべったりと冷たい泥がこびりついたのを感じる。どこかで洗濯しなくてはと考える一方で、手は自然に道連れのポケモンの一匹に助けを乞う合図を出している。

(鑑賞:まさかポケモンゲームボーイが登場するとは思わなかったよね。ポケモン探したことないのに昔草むらで探したことがある気がしてくる)

P147

二十一歳の時に初めて実家を出て、実家の部屋とこの部屋も含めて六つの部屋に移り住んだのだけれども、居室の広さは常に六畳、家具の配置は部屋によってコンセントの位置や窓の数が違ったので一定ではないが、そう目覚ましい変化があるはずもなく、部屋の外側ばかりが変わって部屋の容積と中味は同じまま、四十歳の今日まで来たのだった。

(鑑賞:内容しんどいのに文章が美しすぎる。一息がとにかく長い&深い!)

P153

その部屋でわたしは採用されることのない小説を書き、アルバイトに出かけた。実のところ、アルバイトをしている時は昼間の仕事だけで疲れてしまい、夜は食事をとって銭湯に行って寝るだけで、書くための時間を割くことは難しい。会社員をしながら小説を書いていた経験のある作家はたくさんいるはずだから、自分にそれができないのはおかしなことではないかとも考えたが、できないものはできないのだった。

(鑑賞:できないものはできないよね?!わたしも疲れちゃうからとても励まされた)

P161

犬が裏庭の外を徘徊することに近所から苦情が出て、隣家が放し飼いをやめ犬を繋ぐようになるまで、約一箇月犬と戯れる日々が続いた。アパートからはぽつぽつと住む人がいなくなり始めていた。ある夕方、鬼ごっこに疲れたわたしは犬を抱き上げた。小型犬とはいえ非力な腕にはずっしりと重かったのだが、犬はわたしに体を預けリラックスしているので、お互いに満足が行くまでもう少し抱いていようと思った。抱かれたままあたりを見回していた犬が飛行機の音に首を上げた。つられてわたしも空を見上げた。

(鑑賞:いい風景。犬との戯れの話は好き。さらりと書いているけれど「犬を繋ぐようになるまで、約一箇月犬と戯れる日々が続いた」の一文のレベルの高さ、差し込むタイミングの良さ、完璧すぎ。”これから書くことはもう過ぎ去ったことだけど”みたいな切ない明るい文章はあと何年したら書けるようになるのだろう。ああ、うまく説明できなくて悲しい)

P176

ともかく、三十代の半ば頃に、どうせつまらない人生ならばこれからはできるだけふざけて生きて行こう、と決めた。実は根が真面目なのであまりうまくふざけられないのだけれども、こういうふうに小説の世界の中に生の作者が顔を出して語るというありふれたかたちを恥ずかしげもなく使っているのも、意味ある手法のつもりではさらさらなく、単にふざけたいからなのだ。

(鑑賞:そうだふざけて生きて行こう。)

P181

小説なんか書きたくないの。小説読むような人間にもなりたくなかったね。小説を読まないだけじゃなくて映画も演劇も観ない、たまに観ても一生かかわり合うこともないだろう赤の他人が何だかうだうだと喋ったり動いたりしている、それをじっと座って見物することのどこが面白いんだろうと思って、退屈で、早く家に帰ってご飯に味噌汁かけて沢庵と一緒に食べて、鳥籠の小鳥に餌やって、お風呂に入って寝ようと決めて、実際に帰宅して蒲団にもぐったら三秒で眠り込んでしまえる、そういう人になりたかったね。

(鑑賞:ああわかる。「そういう人」になりたすぎて中学生のわたしは親に泣きついたことがある。)

P181 

抽象的思考力や自意識なんかは最低限あればいいんじゃないの? で、具体的な人や物とだけ関わってさ、嫌いな人もあんまり多くなくて人と一緒にいるのが好きで、緊張もしないでどこにでもすぐに溶け込めて、孤独感なんてことばは知っていても本当のところはどういうものなのか理解できなくて、まあ時には退屈したり「一人になりたい」と思うとしても、私みたいに堅牢な自分一人だけの世界を築き上げて一日に何時間もその中に籠ったりすることはなく、基本的には毎日楽しく過ごせて、自我が安定しているから誰かをひどく憎んだり過度に入れ揚げたりもしない、つまり何の障害もないのに情熱的な恋をすることはないし、好意を抱いた相手との仲が破綻しても打ちひしがれたまま長い時を過ごすということもない、セックスにも独特の癖なんかないんだろうな、きっと。

(鑑賞:ああわかる。わかりすぎてウケる。「具体的な人や物」とかね。「緊張しないで」とかね。ものすごい自己否定の言葉だけどこれだけ自分の嫌いなところを書けてしまうことが「そういう人」ではないことを証明している。)

P200

わたしはこの文章の中で鈴子を変形したい。わたしにとって都合のいいように。こうあってほしいと思う人物像に。以前にも書いたけれども、鈴子が生身のわたしを自分の物差しで測り乱暴に解釈してわたしを変形するのなら、わたしも文章の中で似たようなことをして悪い理由はない。わたしの希望はごく単純だ。鈴子とこの家で和気藹々と暮らしたい。

(鑑賞:うお〜!屈折の中の貴重な素直さ!)

P220

私は昌子のいい笑顔をプーケットから日本へ持って帰りたかった。あれが昌子のあるべき姿だった。「セックスになんか十円だって払いたくない」と昌子は言い私も同意したけれど、セックスはさておき、もし友達をお金で買えるなら私は昌子を買う。旅行中ずっと私はそう思い続けていた。

(鑑賞:「もし友達をお金で買えるなら私は昌子を買う」は名言すぎ。心に刻んだ)

P220

だから帰国してから同居に誘った。昌子を家にただで住まわせて好きなように遊ばせよう、というのが私の当初のもくろみだった。小説を書くことが昌子にとっての最高の遊びだろうと考えていた。昌子を変えたかったわけではない。むしろ変えられるものなら昌子を取り巻く世界の方を変えたかった。私は世界を両手で粉々にすり潰し、それを見て微笑むあなたが見たい、ベイビー、ベイビー、ベイビー……。

(鑑賞:小説を書かせることが住まわせる言い訳だった。手の内明かしちゃうんだ感はあっても書かなければいけない言葉だった。私は世界を両手で粉々にすり潰し、それを見て微笑むあなたが見たい。ああ、愛しい。最高だ)