遠浅

平野明

潜水する作家

富岡多恵子のなにかのエッセーで、飼い犬について書かれたものがあった。“わたしは柴犬を飼っていたことがあるけれど、犬のことを文章かなにかで発表したことはない”という、犬を書かないことについて書いたもので、その姿勢があまりに富岡多恵子すぎてカッコよく、影響されやすいわたしはもし犬を飼ったら犬について書かないことを心に決めた。
作家の動物への態度はいつもおもしろいけれど、富岡多恵子と対照的なのが松浦理英子だと思う。いま松浦理英子作品を欲望のままに読んでいるのだが、「優しい去勢のために」で犬のエッセーを読んだときは、自分の中の犬好きの魂が共吠えし、あまりのトキメキで倒れそうになった。犬への親しみという体液が滲み出てとまらない文章の流れに、なんだか生理的に共感するものがあり胸がざわついた。富岡多恵子ごめん、わたし松浦理英子のほうが水が合うかもしれない。

松浦理英子を支持するということは、犬を飼うなら犬を、亀を飼うなら亀のことを書くのではもちろんなく(ペットを書くことに対して不真面目な作家は嫌いだ)、犬なら犬の世界に一度は沈むということだ。溺れるのではなく、対象を自分と一元的な次元で扱うこと。それは恐ろしい世界のはずだ、無傷ではいられない場所に松浦理英子はするすると降りていって、肉弾戦をして帰ってくる。

胸が痛くなったのは「優しい去勢のために」の中の「女は男をレイプするか」というエッセーだ。男の女に対する最大の侮辱は強姦である、と発言する男がいたが、それは本当だろうか、強姦は女にとって不愉快だが、はたして最大の侮辱たり得るだろうかと検証する内容で、わたしは目眩がしたどころか、松浦理英子にそんな言葉を投げたクソ男にはらわたが煮えくりかえり、話す相手を見誤ったなバカめとも思い、最後には言葉と言葉で話すことのできる松浦理英子にひざまずきたい気持ちになるのであった。取り上げる価値もない言葉だ、わたしなら殴るか退席するかしそうだけど、一方でそれは発言を認めたことにもなり、悪意への反射反応であり、まだまだ傷つきやすい自分が恥ずかしくなる。

けっこう危ない場所で書いている松浦理英子が好きだ。対象の方へ降りていって、好きとか怖いとかの向こうへ足を踏み入れる愛の表現が好きだ。
わたしのイメージの中では、松浦理英子はいつも夏の野外プールで潜水して出てこないでいる。息を詰めて水中に潜って目をひらけば、やっと彼女がなにをみていたのか知ることができる。