3ヶ月前に買ったSONYのα7を触るのが面白くて、写真を撮るのが楽しくて、読書するより掃除するより先にまずカメラとの生活がある。もう何もカメラ無しには考えられない。写真を撮る動作。他人の写真を鑑賞する楽しみ。出かける機会。カメラはいろんなことを連れてきてくれた。
カメラを飼い犬代わりにして、一緒に街をうろうろする(人はこれを散歩と呼ぶ)。それだけで楽しい。広場に転がる子供自転車。歩道橋。寄りすぎると撮れないから、撮ろうと思ったところから3歩下がってカメラを構える。
わたしのレンズは単焦点の50mmだ。人間の肉眼で見える角度、47度に近いのを選んだ。スマホカメラに慣れていたから広角の狭さにびっくりする。テーブルのケーキとかもふつーに撮れない。立ち上がって一歩引くか、座ったまま背骨の限界までのけぞらないといけない。
写真を撮るにあたって、なによりもまず、心に描く出来上がりのイメージというものがある。イメージできるからカメラを構えることができる。場所の指示出しができるし、モデルもイメージを共有するからポーズすることができる。
だけど写真がイメージをはみ出すことがある。想定外の光、想定外の配色、想定外の表情。誰のものでもない世界の表現の組み合わせによって。そういう写真は大はしゃぎするほどとっても「かわいい」。
女が女を撮るときの気持ちは自撮りと同じ。撮ることと撮られることは同じように快い。撮られる側としてレンズの前でじっとしている時も、気持ちは幽体離脱してカメラを構えるあなたの傍らにいる。撮り手の欲望は撮られるわたしの欲望である。わたしは撮る、あなたはじっとする、カメラを挟んだふたりによるイメージのために。