11月のzineのテーマを煙草を吸う女にしようと思って、そういえば現代詩手帳の富岡多恵子特集に、煙草をくわえてる多恵子の写真があったはずだと思ってひらいてみたら、写真よりも富岡多恵子の散文の方に目が吸い寄せられ、胸がドキドキして、一度は頭をよぎった煙草のテーマが急につまらなく、ばかばかしく思えてしかたがなかった。不意打ちに読んだ多恵子の文章は、植物祭の引用だったけれど、読んでいる自分の背中から、肩甲骨の辺りから、ありもしない翼がめりめりと生えてきそうな心地がした。わたしのまだ使ったことのない未使用の言葉が、多恵子の言葉に手招きされて肉を破って飛び出していきそうで、使ったことも呼んだことも見たこともないけれど確かにある文章の筋肉の動きのようなものが、自分の気持ちとは関係なく、多恵子に会いたがっていた。どうして人間の背中はつるつるなんだろう、これだけ身体の前側から刺激を受けているのだから、翼なり、長い体毛なり、ツノなりが、裏側から発散させないと釣り合いが取れないように思うけれど。
富岡多恵子ほどには魅力的じゃないけれど、煙草を吸う女が好きで、煙草を吸う女についてなら書くことがたくさんあると思ったのはほんとのことだ。ひとに負けないぐらい、煙草についてのいい思い出がたくさんあるから、今でも煙草は嫌いじゃないし、過去の嬉しかったことやイイ気持ちを思い出したいときは、わたしもベランダに出て煙草を吸う。
ルーマニアの劇場のバックヤードで、休憩中のテクニカルチームが日陰のテーブルについていて、ヨーロッパらしい陰影の濃い暗がりの中で男も女も煙草を吸っていたことや、日本の海辺に住んでいる大好きなパーちゃんの家へ行くと、必ず食事の後に巻き煙草が出てきて、骨っぽい美しい指でくるくるサッサッと巻いてくれる煙草のことや、むかし付き合いのあった若い女友だちが、いま生きている事実を忘れたいためにせわしなく箱を開け、一本くちびるで抜き取り、水色のライターで火を付ける姿も、わたしは好きだった。
生理や出産をしない男、死ぬまでこの身体で生きていかなければいけない男が煙草を吸うのは当たり前だけど、毎月ホルモンの波があり、ときには違う生き物みたいに変化する女が煙草を吸うのは、存在自体が詩である女がわざわざ詩を書こうとしているみたいにわたしには思える。どうして煙草を吸うのか、どんな詩を書いているのかは問題ではなくて、女が煙草を吸うこと、女が詩を書くことの中に、自分自身に波を起こそうとしている姿をわたしは見る。アルコールでは再現できない、煙を吐くと一瞬にして心がオープンになる感じや、こちらに煙がかからないようにと不自然に曲げられた手首のやさしさに、連れてくる煙草の仕草に、わたしはいつまでも親しさを感じるのだ。