いまは2025年であるけれど、歴史の年表を目の前に広げたときに、どの時代まで想像を飛ばせるかは自分の大きな課題だった。中高生の頃は、自分が生まれてから現在までの時間がすべてで、自分が生まれる1997年以前の時間は、古墳だろうが昭和だろうが一緒くたに「昔の時間」としていた。美空ひばりを遠く感じ、第二次世界大戦を遠く感じ、写真技術がないために風景画や文章でしか記録がない時代に関しては、歴史の教科書の内容としか感じなかった。加えて漢字も苦手なので、徳川ナントカ○代目将軍になるとさか立ちしてお手上げで、日本史のテストはいつも赤点ギリギリかそれ以下の劣等生だった。
いまの時間がすべてな自己中心的時間感覚に革命を起こしたのは、わたしの場合フランス文学だった。コレットにハマって1920年代を身近に感じた。アメリカ人だけどパリで晩年を過ごしたスタインの言うことにはうなずくことばっかりだった。古典と思って読み始めたフローベールの小説はいまの小説みたいに面白かった。特にフローベールは近代の三人称小説のスタイルを作った人物という情報からも記憶に残った。19世紀後半までならいつでも行けるようになった。わたしのいまの時間に重なった。
先週、取材仕事で美術館に行くことがあった。その企画展では、神社で奉納される神楽や雅楽(ががく)に関する衣装や楽器を展示していて、仕事で来たこともあり、学芸員の方から直接に説明を受ける機会に恵まれた。神楽は、日本神話のアメノウズメノミコトという女性が神がかりにあって舞ったことに由来があるらしく、また舞には厳格な形式がないため地域ごとにその表現も違ってくるという話だった。見せるものは舞でありながら、舞の向こう側の神の姿ということや、人間がどうやって神を表現するのか、その技法にも興味を持った。中世の能よりもずっと近しく感じた。アメノウズメの踊りがわたしのいまに重なった。
昔のことを考えるとは、どの時代まで想像力を飛ばせるか、頭の中に白黒映像を流すことができるかだと思っていたけれど、自分の腕の内側に時代を抱え込めたならそんな努力は必要ないのだった。時間は帯のように長く連なるものでも、地層のように重なるものでもない。ワンレイヤーの中に連続しないたくさんの時間が入っていて、そこでは昨日の出来事も1000年前の出来事も違いはないのだった。昨日の日記も、フローベールのボヴァリー夫人も、紙に書き付けられたインクという意味では同じだと感じられるのだった。
美術館で、ショーケースに収まっている源頼朝の像のレプリカを見たとき、なんだか笑ってみたくなるようなおかしな感じがした。こういう古めかしいものに騙されて、歴史から遠ざけられてきた気がした。こんな鉛色のコチコチの姿ではなくて、色の良い着物を着て家の中を歩いている、昨日会った気がする源頼朝に会えるはずだと、傲慢なわたしは思っている。
