
友だちを待っているあいだタワーレコードに入った。久しぶりに入ったタワーレコードは何も変わっていないのに客だけがいなかった。ふかふかの大きな黒いヘッドホンを耳に装着して最新の日本人バンドのアルバムを試聴した。うなるようなギターの音の重なりに続いて日本語でなにか喋っているのが聞こえた。その歌の内容を聞いていたらだんだん恥ずかしくなってきてヘッドホンを外した。友だちが手洗いから帰ってきた。
ヘッドホンの向こうから「こころが音をたてて崩れる」というようなことばを聞いたのだ。「こころが」の部分はいま思えば聞き間違いかもしれない。「音をたてて崩れる」は確かに聞いた。「崩れる」という動詞に「音をたてて」という副詞をくっつけた紋切型の詩だった。でも崩れるときって音がたつのかなあ、音がたたない崩れるもあるんじゃないかなあ。音がたつ素材でこころはできてるのかなあ、崩れるときに地鳴りやホコリよりも音が気になったのかあこのひとは、と気になって続きが頭に入ってこない。
わたしは詩人ではなく、現代詩の読者でもないけれど、ことばについて考えることを通して詩について考えてきた。詩歌の形式への興味ではなく、詩の中にある詩心、いや「詩心」ということばが引き起こす花よ蝶よのイメージからもっとも遠いところにあることばの自然に興味があった。それはなにも詩歌のなかにだけあるわけではない。わたしはことばで書かれたものならどんなものにも詩は存在すると思っている。でなければ、ひとが詩だというものを詩ではないと思ったり、大衆的な推理小説の中に詩を感じたりすることの説明がつかない。
1ヶ月前、篠田正浩監督の「卑弥呼」という映画を見た。旅をしていた弟タケヒコが姉のもとに帰ってくる。タケヒコは出会った動物について姉に説明する。「馬を見ました」とタケヒコ。「馬というのはどういう生き物なの?」と姉は聞く。「人間よりも大きくて、風のように走るのです」とタケヒコは答える。
タケヒコの返答に、わたしは詩の始まりを耳にした気がした。馬は人間よりも大きかったのだ。馬は風のように走るのだ。それはまだ比喩になっておらず、ほんとうにそうだったのだ。やがて日常的に馬に乗るようになり、もっと速い乗り物があらわれるようになると「風のように」は本来持っていたことばの力をうしなって、紋切型の記号になっていく。
記号化はことばの運命である。記号になっていないことばはない。「馬は風のように走る」が詩になる時代は終わってしまった。「血のように赤い」が実感として迫ってくる時代は終わってしまった。でもまだ、ほんとうのことを書けると思う。いまにはいまのことばのリアリティがある。うそは詩にならないけど、ほんとうは詩になる。ほんとうのことばだけを書こうと思って書いたら全部お経になっちゃって、詩を書くのをやめたのは富岡多恵子だったけれど。でも彼女は小説を書くようになってもずっとほんとうのことを書き続けたのをわたしは知っている。