遠浅

平野明

本を売ってる場合ではない

文学フリマ東京42では過去最大の3,509のサークルが出店していた。小学校の体育館が10個並んでもまだ足りなそうな広大な会場に、小さな人間と小さなテーブルがぎっちり詰まったのが、まるごともうひとフロアあった。歩いても歩いてもひとの顔。次から次へと流れてくる文字情報。まるでXのオススメ欄をさまよっているような心地だった。

会場にいるたくさんの著者、たくさんの本を前にしても「書くことが好きなひとがこんなにいるんだ、感動した、わたしも書き続けよう」とは思わなかった。出店者と来場者の体温で会場の気温は上がり、時が経つほどに汗ばむほどだったけれど、それは書くことの熱量とは別なものだった。誰も彼もが本を買いたがっており、自分の本を買って欲しがっていた。その欲望の目つきの交換の中に本の居場所なんてどこにもなかった。わたしたちは目と目を合わせていた。本はそれが本ならば、著者の手を離れても自分の人生を歩いていけるものだけど、それを保護者のように著者が付き添う光景に、本の力の衰退を感じた。

出店数の多さも考えものである。5時間の開催時間に対して3,509の出店だから、全制覇しようと思うと1ブースの滞在時間は約5秒、1分間で約11.7店舗のペースで移動し続ける必要がある。だから事前にどこへ行くのかリストアップしておいて、開場と共にそこ目がけて一直線に進むのが文フリ東京の攻略法のようである。文学フリマ勢はたいていX(Twitter)利用者だから、出店者としてはXでどれだけひとの目に留まれるかが勝負になってくる。もはやコミュニケーションの欲望が基盤になりつつある文学フリマにおいて、フォロワーやリポストの多いユーザーが売り上げを伸ばすのは当たり前だ。

文学フリマ東京はこれからもどんどん大きくなるだろう。次の文フリ東京も「過去最大」を更新するだろう。いつか2つのフロアでは足りなくなり、3つめのフロアが開放されるときがくるかもしれない。その未来の中にわたしはいたくない。わたしがしたいのは文学であって本を作ることではない。いわんや販売をや。本を作ると自分がなにか成し遂げたような気分になるけれど、文章を書く以外のいろいろな煩雑なことに絡め取られて、結局忙しくてカラッポな気分になっていく。一生自分で本を作り、それを自分で売り、自分のXで、自分の本を買ってくれって宣伝するのか、わたしは? そんなことになったらいよいよ終わりだ。

撤収作業を終えたくたくたの身体で、あんぬさんと一緒に国際展示場のサイゼリアにすべり込んだ。冷たいビールを飲んだら、心の中が「本を読みたい」でいっぱいになった。本を読みたい。だらっといすに座り込んで、だまって読書をしたい。もう1冊だけどうしても書きたいものがあるから、それを書いて、ゆるい系のブックフェスに持っていったら、当分なにも作りたくない。