福田和也の「福田和也の超実践的「文章教室」」で紹介されていた村上龍の「テニスボーイの憂鬱」をきっかけに村上龍をちょっと読んでみている。有名な「イン ザ・ミソスープ」とか「69」とか「コインロッカー・ベイビーズ」とかを読んでないのはマニアな勧め方してくる福田和也のせい。それで「フィジーの小人」「KYOKO」と続けて読んでいたら、「KYOKO」がとても村上春樹の小説みたいで、そこではじめて自分が村上春樹をどんな風に印象付けてるのかを知った。
だってこんな女の子いないぜ。きれいで、ダンスが上手で、クールだけど笑う顔は可愛くて、辛いことがあっても涙を流さないKYOKO。日本で10年ぐらい運転手の仕事をしていてコツコツお金を貯めて、そのお金でアメリカへ渡り、昔ダンスを教えてくれた男の人に「ありがとう」を言うためだけに行動する女の子。KYOKOに会うアメリカ人はみんな、最初は警戒するんだけど、KYOKOの言動なりダンスを見たりして態度を改め、彼女を好きになる。こんなパーフェクト子いない。それは妖精や天使でしかありえない。
と思っていたら、あとがきで村上龍が「この小説は妖精譚」だと書いていた。分かってるんならいいけどサ。それから、最後と最初の章だけがKYOKOの語りで、他はアメリカ人による語りなのもKYOKOがひたすら客体に徹しているようで受け入れがたかった。KYOKOはまだ何も言っていない。
まさにここが村上春樹っぽいなと思ったところである。村上春樹は「男流文学論」という上野千鶴子と小椋千加子と富岡多恵子による対談本の中でボッコボコに言われていて、さすがにわたしも「そこまで言わなくても。村上春樹は文体にルールがあっていい」とか思ったものだけれど、読者は文体や形式だけを読んでるのではなく、内容もまた読んでいるのだから。中高生の時は村上春樹の小説に出てくる女が好きだった。きれいで、タフで、強くて、何かチャーミングなものを持っている。いまはそれほどすてきには思わない。むしろそういう女の描き方に反発を覚える。ひとをじっと見て、なにかを積極的に感じ、求める術を、自分が覚えたからだと思う。
「KYOKO」よりずっと女が描けているのはむしろ「フィジーの小人」の方だ。わたしは小人に女を感じる。男以外のものを全て女と言うのであれば、女はこういうものだ。あらすじを置いておく。興味があったら読んでみてほしい。

あらすじ:イギリス人の商人とフィジーの洗濯女のあいだに生まれたワヌーバは身長98センチの小人である。祖父も同じ小人だった。病院で狂死した祖父が遺した手記は「象に殺される」という予言に導かれて旅をする象を知らない男についての話だった。
フィジーを訪れたカナダ女との出会いによってSMの世界が開かれたワヌーバは、彼女を探しにカナダのクロアドウ市へ行った。その市長こそ探し求めていたサディスティアンのシンビア・タッカーなのだった。町は工場廃液で激しく汚染されており、空気は黄色く、人々の手足は欠けていた。ワヌーバは町の施設に監禁された。同じく監禁されたマゾヒストのリンダと共に発狂しない方法を考えた。











