本の市「はなかり市」
2024年11月9日(土)、日本基督教団青森松原教会にて、第3回本の市「はなかり市」を開催いたします。
なんだかいい匂いのする企画です。青森にお住まいのひとはぜひ。
寝ても覚めても
映画「寝ても覚めても」は柴崎友香による同名小説を濱口竜介が監督した作品。主演は唐田えりか、東出昌大。「AsakoⅠ&Ⅱ」の英題で第71回カンヌ国際映画祭に出品された。
見た。見たあとひとの感想をネットで漁って、この尻の座らない気持ちを表現する言葉を探した。トラウマという言葉は唯一あたりかもしれなくて、カットがきれい、唐田えりかすごいとかの前に、もっとなまなましい、直接心臓を触ってくる、素手で心を触りあってる感じがしてかるく寝込んでしまった。傑作。
英題が「AsakoⅠ&Ⅱ」であるくらいには主人公アサコの話なのだが、ざっと感想を読むとアサコを許せないひとはもれなく作品を低評価している。U-NEXTの寝ても覚めてもの評価が星2つであるのも、作品うんぬんではなくアサコに下された人間的評価なのかもしれない。いつも心ここにあらずの顔で、はっきりものをいわず、突拍子もない決断をしてまわりを困惑させるクレイジーアサコ。友だちに「もう目の前に現れないでくれ」といわれる星2のアサコ。その内側にどんな力が働いているのか。
わずかに身に覚えがある身勝手なアサコの振る舞いは、彼女の奇妙な時間感覚のせいにある。時間というとふつう、後方に過去、足元に現在、前方に未来があって、川のようにまっすぐ伸びたものを想像する。そして時間は線香の火のように前へ前へと進むので、燃え尽きた過去よりいまの方が、いまより未来の方がだんぜん大事にされる。過去のことは過去に置いてくるのが良いのであって、いまにはいまの生活があるのだから、ずるずると元カレを引きずっていてはいけないのである。
アサコだって分かってる。まねできる限りの常識をしている。いまだけが大事で、いまの彼氏だけが大事だって分かってる、分かろうとしている。ひとに伝わるはずのない、いまをいまに結びつける努力をしている。だからアサコは元カレの登場によっていまを台無しにされたくなかった。過去に終わったことが終わらないままいまを生きているアサコ、まとまらない時間が弾けたらどうなるかをいちばんよく知っているのはアサコである。
寝ても覚めてもそのひとを考え、会いたいと思い、会いに行った習慣は、相手がいなくなっても自立した仕組みになって体から抜けることはない。失恋のしんどさとは、昔よく歩いた道をいまでもすらすら歩けるかなしさである。ふだん思い出すことのない何年前の出来事を、まるで昨日手を振り合ってわかれたように思える、そうとしか思えない日があるのはどうしてか。昨日のように10年前を、10年前のように昨日を思いださせる時間とは、本当のところどんな形をしているのか。そして、昨日と10年前が同列に存在するなら、10年前の恋人と会ってはいけない理由なんて社会常識ぐらいしかないではないか。
アサコにとって時間とは心のことなのだ、簡単に切り分けられない。心のキャパシティを100だとして仕事が40で趣味が30だから残りの30を恋に使うなんてことができないように、アサコには全ての時間と心が100の気持ちで本当で、それは矛盾なく嘘じゃない。
元カレから去りリョウヘイの元へ帰ったアサコには言葉がない。裏切り行為を反省し、リョウヘイにすまないと思いながらも、内心では常識的な時間の認識を学習したことを、話せるわけがないし話せる言葉をアサコは持たない。分かっていることは、このひとと生きていくという自分の決心だけで、川を見つめるアサコはなにかクリアに観念した顔をしている。同じ顔つきを夜行バスで大阪に向かうときにもしていた。バクの車でもリョウヘイの車でも助手席で眠っていたアサコが、バスの中ではぱっちりと目を覚ましていた。雨は降る、川は流れ、海に行きつく、そういう自然を見つめる目で自分の中のままならない自然をアサコは見つめ、ひとりで降参したのだ。
ひとが作品を書き始めるとき、救済が理由になることがある。映画「寝ても覚めても」はアサコの救済であり、アサコのようなひとの救済であり、これは想像だけど原作者自身の救済でもあったんじゃないかと思う。書くという自己治療と自傷の両輪のあいだでボロボロになりながらアサコを書いた気配が怖いほど伝わってくる。アサコと一緒になってハラハラ、涙だくだくになって鑑賞したわたしは間違いなく救われたひとりだった。いままで傷つけてきた数々のやさしいひとたちと画面の中で出会い、川をながめるようにお別れすることができた。
やさしいレナ
富岡多恵子訳のガートルード・スタイン「三人の女」に収録された3つ目の短編「やさしいレナ」がいい。
主人公のレナは我慢強く、やさしくて気立てのいいドイツ娘だった。他の女中たちも、単純でやさしいレナのことが好きだった。そのうちの2、3人はいっしょになってレナを意地悪して困らせたけれど、それでもレナはこの生活すべてが楽しかった。だけどレナは知らなかった。自分がこの女中仕事を好きで、楽しいことを自分でよくわかっていなかった。そのうち、伯母のいいつけでレナは仕事をやめた。親戚の用意した男と結婚して家庭に入ったレナは、なにか悲しく弱っていったけれど、それがどうしてなのか自分で分からなかった。かわいそうに、レナはあまりに弱ってしまい、こなければよかったと思うことさえできなかった。「レナ、あの連中はお前に満足にものも食べさせてないんだろう、お前が本当にかわいそうでならないんだよ、レナ、わかるだろう、レナ。だがね、それはたとえお前がそんないやな目にあっているとしても、なにもそんなにだらしなく歩き回っていていいということじゃないんだよ、レナ」と、いまもレナを叱ってやり、会いにくるようにさせていたのは、女中時代のドイツ人の料理女だけであった。レナは子どもを3人産み、4人目の出産のときに子どもと共に死んでしまったが、レナがどうしてそんなことになったのか誰にも分からなかった。
同じ一行を全く変えないまま文章に差し込みまくるという、おきてやぶりで自閉症的なガートルード・スタインの手癖は、どこまで読んだか分からない本をいつも同じページで開いてしまうような、安心感とひとの恒常性のかなしさを感じさせるようなグルーヴがある。そして、作者の特権でもって登場人物の知らぬことを「彼女は知らなかった」とガートルード・スタインが書くとき、その声が彼女らに届かないことがかなしくてならない。ふと思い出すのは哲学のことで、この学問の目的がむかしの哲学者を理解することにあるのではなく、哲学者自身には見えなかったけれど確かに内包していたものを新しい人がひらいていくことにあるなら、この作者は似た能力を使ったのかもしれない。彼女の知らないことを「知らなかった」と書いてやることで供養できるたましいがある。
レナは自分がそういうことが好きでないのを本当には気づいていなかった。自分がいつも夢みたいで心が留守になっていることに気づかなかった。彼女はそこから離れたブリッジポイントでの生活が自分にとって違ったものになるのかどうか考えなかった。ミセス・ヘイドンは彼女を連れてきて、今まで着たこともないような服を着せ、それからいっしょに汽船に乗せた。レナは自分の身に起こったことがどういうことなのか、はっきりわからなかった。
コトバという自然
若いころモダンダンスの修行のためにヨーロッパへ渡り移住したダンサーが、いまはコンテンポラリーダンスをしているというので、コンテンポラリーダンスってどんなですか、と聞いたことがあった。そのひとは、自分からなにかをしようとしないことかな、テーマにするのは自分より環境のほうで、例えばテーマを重力にするなら体を重力に動かされるままにしておくんだけど、環境にゆだねた動きはどこかで必ずぴたっと止まるときがあって、止めようと思っていなかった体が止まったことに自分で驚くのが大事。と手振りまじりで教えてくれた。
富岡多恵子の当世凡人伝という短編集にある、ワンダーランドという一編を読みながら、そのことを思い出したのだった。というのは、この話があまりにかろやかなダンスで、言葉という自然(環境といってもいい)に書かされてるように感じてならなかったから。ワンダーランドを読みながらわたしは想像する。作家・富岡多恵子がペンをとったときにはまだ人妻の美々子の書かれる予定はなかったんじゃないか。ミノとルイの心理に入り込めないひとが登場できたらいいけどそれが清潔でかわいそうな女だとは知らなかったんじゃないか。
ト書集という富岡多恵子のあとがきを集めた本のなかにすでに、書きたいという気持ちはなにか、という内容のエッセーがあった。自分は職業だから書いてるけど、書きたい、表現したいって気持ちはなんなんだろうな、と富岡多恵子はいうので、改めて彼女の、言葉に書かされる力、言葉のうなりを聞く詩人としての能力に恐れ入ってしまう。
小説には小説という自然が、日本語には日本語という自然があることに、わたしは最近気づきつつある。こういう設定で、こういう人が出てきて、こういう起承転結にしたい、と作者は妄想するものだけど、もしかしたら一行目を書いたときに作品は独自の命を持ち始めているのかもしれない。そして言葉は、言葉の自然でもって作家の書きたいことや表現したいことに反乱を起こすのだ。小説に「意外な展開」はない、自然なことしか起こらない。というのはわたしのパートナーの言葉でもある。
……わたしは想像する。坂道の半ばを転がり落ちるオレンジ色のピンポン玉を。小石の前では跳ね、軌道を変え、またころころ転がって、側溝のどぶに落ちるか子どもに捕らえられるまでコンクリートの上をふらついているピンポン玉を。