遠浅

平野明

やわらかい頭、やわらかい身体

自分の可能性を見直すこと。ある程度大人になると、自分の得意なことや不得意なことが隅々まで分かったような気がして、なにか気になることがあったとしても「や〜、続かないだろうな〜」とか「や〜、もう進んじゃってる道もあるし今さら引き返せないな〜」とか思って、考えが言葉になる前に視界から抹消してしまうものだけど、その可能性という名のゴミについてもう少しやさしくしてあげたい。

最近、身近なひと2人から「ヨガのインストラクターとか向いてるんじゃない」といわれて、自分的には思いもよらない発想だったけど、相手はそれが割とイメージ出来てるみたいな顔をするから、びっくりしたことがあった。ヨガのインストラクターという言葉では考えたことがなかったけど、そういえば身体にはもともと強い関心があって、ヨガ的なストレッチは大学生の頃から自己流でやっていた。

自分への先入観が一番強いのは自分だと思う。書くことが得意だし好きだから、仕事でも趣味でもなにか新しく始める時は、最終的に執筆に繋がるものしか選んでいなかった気がする。それ以外を選ぶと、ちょっとだけ損をしたような、人生がちょっとだけ遠回りになってしまいそうな気がして不安だった。

自己分析をすればするほど、自分の範囲がキューッと狭くなっていく。鋭くて不動の個性を持つことは、もしかしたら人間の仕事ではないのかもしれない。シリアスな性格で生きてきた人が必ずしもシリアスな顔で死ぬわけではないことを、色々なテレビドラマを通して知っている。彼女はきっと(というとき、わたしはダウントン・アビーのメアリーを思い出している)、シリアスで皮肉屋で勇敢で笑顔の温かい人として死ぬだろう。

人間は地球の表面を転がる磁石みたいだ。生きるほどに新しい感情と出来事が身体にくっついて、それらは死ぬまで離れない。ゴミも宝もくっつけた身体は巨大な雪玉のようになっていく。ダイエットは不可能である。全て引き連れて生きていくしかない。

こんなことを妄想してしまうぐらい、今月は色々なことが終わった月だった。終わるということは新しいことが始まるということだ。ぽっかり生まれた時間で、友だちと海で泳いだり、新居で飲んだり、初めましてのひととおしゃべりした。あるひとは湘南と離島の2拠点生活で、あるひとは1ヶ月半のホテル住まいをしていて、あるひとはエジプトへ旅立っていく。それぞれがそれぞれのやり方で生きている。心の底にゆるゆるした楽しいイメージが広がっていく。基本的に人生において「せねばならない」ことなんてないと思うんだけど、ひとつだけあるとしたら、楽しく生きる努力はしたほうがいい。ヨガ、いいかもな。違う場所で暮らすのも、いいかもな。やわらかい頭で、楽しく毎日を過ごしたい。

こんな女の子いない

福田和也の「福田和也の超実践的「文章教室」」で紹介されていた村上龍の「テニスボーイの憂鬱」をきっかけに村上龍をちょっと読んでみている。有名な「イン ザ・ミソスープ」とか「69」とか「コインロッカー・ベイビーズ」とかを読んでないのはマニアな勧め方してくる福田和也のせい。それで「フィジーの小人」「KYOKO」と続けて読んでいたら、「KYOKO」がとても村上春樹の小説みたいで、そこではじめて自分が村上春樹をどんな風に印象付けてるのかを知った。

だってこんな女の子いないぜ。きれいで、ダンスが上手で、クールだけど笑う顔は可愛くて、辛いことがあっても涙を流さないKYOKO。日本で10年ぐらい運転手の仕事をしていてコツコツお金を貯めて、そのお金でアメリカへ渡り、昔ダンスを教えてくれた男の人に「ありがとう」を言うためだけに行動する女の子。KYOKOに会うアメリカ人はみんな、最初は警戒するんだけど、KYOKOの言動なりダンスを見たりして態度を改め、彼女を好きになる。こんなパーフェクト子いない。それは妖精や天使でしかありえない。

と思っていたら、あとがきで村上龍が「この小説は妖精譚」だと書いていた。分かってるんならいいけどサ。それから、最後と最初の章だけがKYOKOの語りで、他はアメリカ人による語りなのもKYOKOがひたすら客体に徹しているようで受け入れがたかった。KYOKOはまだ何も言っていない。

まさにここが村上春樹っぽいなと思ったところである。村上春樹は「男流文学論」という上野千鶴子と小椋千加子と富岡多恵子による対談本の中でボッコボコに言われていて、さすがにわたしも「そこまで言わなくても。村上春樹は文体にルールがあっていい」とか思ったものだけれど、読者は文体や形式だけを読んでるのではなく、内容もまた読んでいるのだから。中高生の時は村上春樹の小説に出てくる女が好きだった。きれいで、タフで、強くて、何かチャーミングなものを持っている。いまはそれほどすてきには思わない。むしろそういう女の描き方に反発を覚える。ひとをじっと見て、なにかを積極的に感じ、求める術を、自分が覚えたからだと思う。

「KYOKO」よりずっと女が描けているのはむしろ「フィジーの小人」の方だ。わたしは小人に女を感じる。男以外のものを全て女と言うのであれば、女はこういうものだ。あらすじを置いておく。興味があったら読んでみてほしい。

あらすじ:イギリス人の商人とフィジーの洗濯女のあいだに生まれたワヌーバは身長98センチの小人である。祖父も同じ小人だった。病院で狂死した祖父が遺した手記は「象に殺される」という予言に導かれて旅をする象を知らない男についての話だった。
フィジーを訪れたカナダ女との出会いによってSMの世界が開かれたワヌーバは、彼女を探しにカナダのクロアドウ市へ行った。その市長こそ探し求めていたサディスティアンのシンビア・タッカーなのだった。町は工場廃液で激しく汚染されており、空気は黄色く、人々の手足は欠けていた。ワヌーバは町の施設に監禁された。同じく監禁されたマゾヒストのリンダと共に発狂しない方法を考えた。

会いたいひと

山梨県の富士五湖を震源とする地震が起こったのは6月26日(金)22時29分。その頃わたしは小田急線急行に乗って新宿へ向かっていた。新宿バスタを24時10分に出る、仙台行きの夜行バスに乗るためだった。

誰かのスマホからびっくりするほどの大音量で警報が鳴り出したのと、電車が急ブレーキを踏んで、読んでいた本が手から飛んでいきそうになったのは同時だった。各々のスマホから各々のタイミングで発せられた警報は一瞬で大合唱になって、不吉よりも不快な響きに、今夜はもう乗りたいバスには乗れないことを察した。電車は止まったまま横揺れし、最寄りの町田駅にゆっくり滑り込んだ後はちっとも動かなくなってしまった。

仙台にはわたしの大好きなかよちゃんがいた。5年も会っていなかった。足が遠のいていたわけではなく、会わないように自制していた結果の5年だった。それが6月に入って、そろそろ会ってもいいかな、これ以上待てない、仙台を注入したい、いますぐに!という思いが胸の底から湧いてきて、すでに仙台駅前にいるような気持ちで、かよちゃんに連絡したのが月の頭だった。

今年は梅雨らしい梅雨である。それに台風も近かった。雨がしとしと降り続いていて、たくさんの家に帰りたいひとが、若干濡れたまま、眠たげにホームに立っていた。ひとまず復旧した各駅停車に乗って自宅に戻ると、服も着替えずベッドに横になり、数時間後に起き出した。地面が揺れ、台風が直撃で、わたしは寝不足で顔がむくんでいたけれど、やっぱりかよちゃんに会いたかった。2度目の見送りを受けながら、朝の電車の中で新幹線のチケットを取った。

久しぶりに乗った東北新幹線はとんでもない速さだった。雨雲が後方にすっ飛んでいき、トンネルをくぐり抜けるたびに窓の外の空間はますます明るく広くなった。崎陽軒のしゅうまい駅弁を食べて、化粧を済ませ、膝の前の網に挟まっていた薄い旅行雑誌の、北海道の富良野にまつわるエッセーを読んでいたら、絶望しながら家のベッドで目覚めた今朝のことも、ただの前世の悲しみのように感じられた。仙台駅でJRに乗り換え、待ち合わせの小さな駅で降りた。待っていると、車道の流れから外れた白い車がこちらに向かって滑り込んできた。助手席の窓が下り「めーい」と手を振るのは、サングラスをかけたかよちゃんだった。

親戚の中にかよちゃんがいなければ、わたしはどんな大人になったか分からない。直接的な援助があったわけではないけれど、小さい子どもにも生き方を見せてくれた、ただひとりの身近な大人だった。見ることのできる人生はもっと周りに転がっていたのかもしれないけれど、かよちゃんの話すことはいつも未知なる世界に繋がっていて、自分という牢獄に閉じ込められているような気がしてならなかったわたしを励ましてくれた。自分の運命をちゃんと生きてきたひと特有の、もうこれ以外の姿はないとでもいうような全身の落ち着きと、他人への心の開き方がそこにあった。かよちゃんの飼っているサビ柄の猫を前にすると、自分でも知らなかったのんびりした心が引き出されるけれど、かよちゃんを前に話すと、風のように正直な態度が自分の中から引き出されるのだった。かよちゃんの存在はわたしにとって自分と出会い直す機会そのものだった。

ひとはみんな個性的なものであるが、個性の方向というよりも、どのぐらい磨かれた個性なのかということの方に、わたしの興味は向いているような気がする。いつも心の片隅にいる、会いたくて大好きなひとたちは、自分の中の聖域を守りながら自分の時間を生きてきた、または、生きようとしているひとである。そういう強烈な個性を持ったひとと一緒にいると、渦に巻き込まれていくように自分も変わっていく。振り回される。彼女たちの魔法のような生き様に憧れるけれど、こういうリトマス試験紙みたいな役回りが、もしかしたらわたしの個性なのかもしれない。