遠浅

平野明

アサコという自然

映画「寝ても覚めても」は柴崎友香による同名小説を濱口竜介が監督した作品。主演は唐田えりか東出昌大。「AsakoⅠ&Ⅱ」の英題で第71回カンヌ国際映画祭に出品された。

2018 映画「寝ても覚めても」製作委員会/ COMME DES CINEMAS

見た。見たあとひとの感想をネットで漁って、この尻の座らない気持ちを表現する言葉を探した。トラウマという言葉は唯一あたりかもしれなくて、カットがきれい、唐田えりかすごいとかの前に、もっとなまなましい、直接心臓を触ってくる、素手で心を触りあってる感じがしてかるく寝込んでしまった。傑作。

英題が「AsakoⅠ&Ⅱ」であるくらいには主人公アサコの話なのだが、ざっと感想を読むとアサコを許せないひとはもれなく作品を低評価している。U-NEXTの寝ても覚めてもの評価が星2つであるのも、作品うんぬんではなくアサコに下された人間的評価なのかもしれない。いつも心ここにあらずの顔で、はっきりものをいわず、突拍子もない決断をしてまわりを困惑させるクレイジーアサコ。友だちに「もう目の前に現れないでくれ」といわれる星2のアサコ。その内側にどんな力が働いているのか。

わずかに身に覚えがある身勝手なアサコの振る舞いは、彼女の奇妙な時間感覚のせいにある。時間というとふつう、後方に過去、足元に現在、前方に未来があって、川のようにまっすぐ伸びたものを想像する。そして時間は線香の火のように前へ前へと進むので、燃え尽きた過去よりいまの方が、いまより未来の方がだんぜん大事にされる。過去のことは過去に置いてくるのが良いのであって、いまにはいまの生活があるのだから、ずるずると元カレを引きずっていてはいけないのである。

アサコだって分かってる。まねできる限りの常識をしている。いまだけが大事で、いまの彼氏だけが大事だって分かってる、分かろうとしている。ひとに伝わるはずのない、いまをいまに結びつける努力をしている。だからアサコは元カレの登場によっていまを台無しにされたくなかった。過去に終わったことが終わらないままいまを生きているアサコ、まとまらない時間が弾けたらどうなるかをいちばんよく知っているのはアサコである。

寝ても覚めてもそのひとを考え、会いたいと思い、会いに行った習慣は、相手がいなくなっても自立した仕組みになって体から抜けることはない。失恋のしんどさとは、昔よく歩いた道をいまでもすらすら歩けるかなしさである。ふだん思い出すことのない何年前の出来事を、まるで昨日手を振り合ってわかれたように思える、そうとしか思えない日があるのはどうしてか。昨日のように10年前を、10年前のように昨日を思いださせる時間とは、本当のところどんな形をしているのか。そして、昨日と10年前が同列に存在するなら、10年前の恋人と会ってはいけない理由なんて社会常識ぐらいしかないではないか。

アサコにとって時間とは心のことなのだ、簡単に切り分けられない。心のキャパシティを100だとして仕事が40で趣味が30だから残りの30を恋に使うなんてことができないように、アサコには全ての時間と心が100の気持ちで本当で、それは矛盾なく嘘じゃない。

元カレから去りリョウヘイの元へ帰ったアサコには言葉がない。裏切り行為を反省し、リョウヘイにすまないと思いながらも、内心では常識的な時間の認識を学習したことを、話せるわけがないし話せる言葉をアサコは持たない。分かっていることは、このひとと生きていくという自分の決心だけで、川を見つめるアサコはなにかクリアに観念した顔をしている。同じ顔つきを夜行バスで大阪に向かうときにもしていた。バクの車でもリョウヘイの車でも助手席で眠っていたアサコが、バスの中ではぱっちりと目を覚ましていた。雨は降る、川は流れ、海に行きつく、そういう自然を見つめる目で自分の中のままならない自然をアサコは見つめ、ひとりで降参したのだ。

ひとが作品を書き始めるとき、救済が理由になることがある。映画「寝ても覚めても」はアサコの救済であり、アサコのようなひとの救済であり、これは想像だけど原作者自身の救済でもあったんじゃないかと思う。書くという自己治療と自傷の両輪のあいだでボロボロになりながらアサコを書いた気配が怖いほど伝わってくる。アサコと一緒になってハラハラ、涙だくだくになって鑑賞したわたしは間違いなく救われたひとりだった。いままで傷つけてきた数々のやさしいひとたちと画面の中で出会い、川をながめるようにお別れすることができた。