遠浅

平野明

親指Pの修行時代/松浦理英子

“無邪気で平凡な女子大生、一実。眠りから目覚めると彼女の右足の親指はペニスになっていた。”(河出書房HPより)

30年前の松浦理英子のベストセラーである。
1995年の読者は何を思っただろう。ちょうど戦後50年、インターネットも未発達で、わたしはまだ生まれていない。古橋悌二が生きていて、世界のどこも同性婚が制度化されていない時代だ。

この本のすばらしいところは、かなり最低な男根主義者が登場するところだ。わがままで思い上がりの激しい裁判官は〈宇多川〉という名を持ち、言葉を通してわたしを挑発する。

「やめた方がいいよ、レズなんて。女と女の間から何も生まれないんだから。男に相手にされないような不細工な女ならレズになるのもしかたがないけど、君は可愛い方なんだからその春志くんとつき合ってればいいじゃないか。」(p221/親指Pの修行時代下巻)

やばすぎる。読みながら軽く死ねと思う。現実世界で対面したら、無視して終わりなのだが、〈宇多川〉は物語が終わるまで退場してくれない。ここは小説だ。気色が悪い言葉が四方から飛んできて挫けそうになる。松浦理英子は見える限りの通念を受け止め掘り出し、消化させるまで言葉を切らさない。桃を金属たわしで擦りつけるような無遠慮な痛みがあり、憎しみが湧く。

普通に生きていて、ここまで滅多刺しに言われることはない。一言二言あっても、差別的な奴だと分かった時点で人は去っていく。無駄な摩擦を好む人はいない。だがここは小説というフィールドなのだ。

書くことは認めることだ。きっと松浦理英子は〈宇多川〉を認めている。この点にいちばん驚かされたし、すごいところだと思った。尊敬した。わたしは〈宇多川〉を許せない。書いてやらない。すぐに頭に血がのぼる自分が恥ずかしい。

ところで、さきほどの暴言を聞いた一実はこう思う。

宇多川の口から次々と飛び出した珍説に、私は呆気に取られた。女と女の間からは何も生まれないと言うなら、男と女の間からだって子供以外にいったい何が生まれると言うのだろう。男に相手にされないから同性愛になる女が実在するのかどうか私は知らないが、宇多川は何を根拠にそういう女が実在すると考えているのだろうか。さらに、男に相手にされる女であれば男とつき合っていればいいなどと、女は自分の欲望ではなく男の必要に応じて性向を決定すべきである、と暗に強制するような奢り高ぶったものの言いかたがなぜできるのだろう。(p221/親指Pの修行時代下巻)

「それな」である。
一実という主人公は22歳の無邪気な女子大生という設定なのだが、痒いところに手が届くキレキレの切り返しに松浦理英子を感じる。地の文の批評が見事すぎて、後半は正座で授業を受けている気持ちだった。

奇抜な帯文に惹かれて読みはじめた人の多くが、松浦理英子のやろうとしたことや、言葉が強度を増していく経験に、意外な思いをしたんじゃないか。わたしもそうだ。フルスイングですがすがしい。読んでよかった。