遠浅

平野明

一神教と聖典

三大一神教ユダヤ教キリスト教イスラム教)につながりが見えるとおもしろい。わかる範囲でまとめてみる。

○3つの聖典
三大一神教にはそれぞれ聖典がある。聖典とは、神による「啓示」が書かれているもので、旧約聖書新約聖書クルアーンの順番で成立した。

ユダヤ教
 聖典旧約聖書
ユダヤ教では聖典のことをタナッハと呼ぶ。)

キリスト教
 聖典旧約聖書新約聖書
カソリックは紀元前3世紀以後にユダヤ人によって書かれた第二聖典も認める。プロテスタントは第二聖典を文学として扱う。)

イスラム
 聖典クルアーンコーラン

聖典の言語系統
次に聖典の言語系統を見てみる。
旧約聖書ヘブライ語セム系)
新約聖書ギリシア語(インド・ヨーロッパ系)
クルアーンアラビア語セム系)
セム語系は右から左へ書く。インド・ヨーロッパ語系は英語やドイツ語と同じ分類。

ユダヤ教キリスト教旧約聖書を共有しており、ユダヤ教イスラム教の聖典には言語系統が同じであるというつながりがある。

聖典の構成
旧約聖書→律法書/歴史書/文学書/予言書
新約聖書福音書使徒言行録/書簡集/黙示録
クルアーン→114の章(スーラ)と章句(アーヤ)

聖典の内容
旧約聖書
紀元前の数千年の歴史。神と人間との関係(=契約)について書かれている。十戒を中心とする「律法」を神が与え、人間が従うことを誓い、神から祝福を与えられる。
古代世界において、エジプト、アッシリア、ペルシア、バビロニアなどの大帝国が覇権を争う中、厳しい状況に置かれ続けたユダヤ人たちがどのような苦難を生き抜いてきたかを中心とした文書の集合体。
新約聖書
紀元後に登場したイエスの人生とその後について。神と人間の仲介者になったイエスと、人々との関係(=契約)について書かれている。
クルアーン
西暦610年ごろ、ムハンマドが大天使ガブリエルを通して神から啓示された言葉。一字一句が神によって語られた言葉であるとされ、日本語訳などのクルアーンの翻訳は聖典ではなく「解説書」にとどまる。(聖書の言葉は神が語った言葉ではなく、人間が解釈して記録したもの。)

聖典アブラハム
旧約聖書の創世記に登場するアブラムは神からこう告げられる。「故郷(メソポタミアのウル)を離れ、カナンの地(パレスチナ)へ行きなさい。あなたには子孫を約束し、その子が土地を受け継ぐことを約束する。」アブラムはそれを信じ、信じたことが彼の義と神に認められ、神からアブラハムという名前を与えられる。

アブラハム(とこの物語)は唯一神信仰の原型的人格として、ユダヤ教キリスト教イスラム教で崇敬される。新約聖書ではパウロに言及され(ガラテヤの信徒への手紙)、イスラム教でも「イブラーヒーム」の名で何度も言及される。

ユダヤ教の解釈
キリスト教イスラム教は、それぞれの指導者がまったく新しい宗教を作ろうとしたのではなくて、旧約聖書を誰よりも読み、解釈した人間を崇敬した人間から広がっていった2つの枝。イエスが説教していた内容はユダヤ教だし、イスラム教も聖典の中でユダヤ教キリスト教を認めている。

新約聖書物語(文:脇田晶子 絵:小野かおる/女子パウロ会)
旧約聖書新約聖書は絵本で読んだ。女子パウロ会のは、ざっと全貌を見通せつつ、詳しい部分もあって面白い。イエスの復活を見たペトロの話がいいので引用する。

夜明けごろ、岸辺に誰か立っています。その人は大声で、
「おうい、魚はとれたか」と話しかけてきました。
「とれなあい」と叫び返すと、その人は、
「舟の右側に網をおろせば取れるよ」と教えました。
言われた通りにしてみると、網がはち切れそうになるほどたくさんの魚が、いっぺんにかかったのです。ヨハネが、
「主だ」といいました。
主だと聞いて、ペトロは急いで上着をひっかけ、湖に飛び込みました。舟は網を引きながらゆっくりと岸につきます。岸辺には炭火がおこしてあって、魚が一匹焼いてあり、パンもありました。イエスが、
「いまとった魚も持っておいで」とおっしゃったので、ペトロが引き上げると、大きいのばかり153匹もかかっていました。イエスは、
「来て食べなさい」とパンと魚をむかしと同じ手つきで分けてくださいました。
食事が終わったとき、イエスはシモン・ペトロにおっしゃいました。
「シモン、きみは、この人たち以上に、わたしを愛しているか。」
ペトロは答えました。
「はい、わたしが愛しているのを、主はご存知です。」
エスは、
「わたしの子羊の世話をしなさい。」とおっしゃいました。それからまた、
「シモン、わたしを愛しているか。」
「はい、わたしが愛しているのを、主はご存知です。」
「わたしの子羊の世話をしなさい。」
そして、三度目、
「シモン、わたしを愛しているか。」
三度までも、愛しているかとたずねられて、ペトロは泣きたくなりました。
「主よ、主はすべてをご存知ではありませんか、わたしが主を愛していることも……。」
すると、イエスはおっしゃいました。
「わたしの羊の世話をしなさい。」
この言葉で、ペトロはキリストの教会の最高の指導者に立てられたのでした。
(p204 新約聖書物語/文:脇田晶子 絵:小野かおる/女子パウロ会)

○イエスの復活について
十字架にかけられたイエスが3日後に復活したエピソードは有名だが、大衆の目にも明らかなように復活したのではなく、弟子などの前に現れるという個人的なものだった。マリアはイエスが「マリア」と呼ぶのを聞き、弟子はイエスが懐かしい手つきでパンをちぎるのを見た。しかし復活から40日目、イエスは弟子たちの前で天に登っていった。
山本芳久の「キリスト教の核心を読む」の中に、イエス復活の解釈のヒントが書かれてある。

キリストの「復活」とは、キリストが単なる人間ではなく神的な存在であることが決定的に明らかになった出来事-神的な存在として今も弟子たちと共に人生の旅を歩んでくれる方だということが弟子たちに露わになった出来事-として理解されるのです。(キリスト教の核心を読む/山本芳久)

エスの復活を見た人は、手つきにイエスを見て、声にイエスを見た。それは会いたい気持ちが幻覚や幽霊を見せたのではなく、イエスが残していった手つきや言葉に、本当にイエスが見えたのだろう。というか、それがイエスであることを知っただろう。常に存在するのに見えなかったものが見えたとき、イエスはいつもすでにおらず、行為の中に存在し、いつまでも祈りの傍らに居続けてくれることを知っただろう。

 

参考:
キリスト教の核心を読む/山本芳久
旧約聖書物語/文:脇田晶子 絵:小野かおる/女子パウロ
新約聖書物語/文:脇田晶子 絵:小野かおる/女子パウロ