遠浅

平野明

女という生きもの

どうして生理の話は恥ずかしいのだろう? ドラッグストアでは紙袋を用意してくれるし、実家では生理や性の話はタブーだった。「生理バレ」に怯え、生理用品のハート柄にふるえ、このテーマの扱いの難しさ(不器用に寄り添ったり突き放したりする関係)は、すでに社会の全体で共有されている感じがする。

生理は女に妊娠する力があるから起こる。排卵が起こり、妊娠の可能性に向けて子宮内膜が厚くなり、受精しないことが分かると、準備されていた子宮内膜が流れ落ちる。これが生理だ。

“妊娠に向けて準備したが、されなかったので排出した。”という結果を毎月血のかたちで見せられると、身体の才能に歯向かい続ける自分の生き方が間違っているような気がしてくる。生理は50歳あたりまで続くという。残り30年だとして、あと360回以上の生理がくる。妊娠して生理が止まっても、子どもを産めばまた生理がくる。ピルを飲んでも、止めればまた生理がくる。繰り返される身体からの報告は、わたしが女である以上に動物であることを自覚させる。

どうして恥ずかしいか? それは社会が動物的なしるしを隠す場所だからだ。社会はかっこいい。生活感がなく、意思が一貫していて、不死だから。社会と動物は非対称に存在し、常に社会は社会を、動物は動物を求める。

腰が重くて吐き気がする。ベッドに横になりながら、なぜ哲学者が男性ばかりなのか少し考えていた。女性が教育から排除されてきた歴史も大いにあるだろうが、毎月の生理が強制的に自分の足元を見つめさせるせいもあるのではと思った。生理は身体を絶対に忘れさせない。体調不良を訴え、流動的で、手がかかる肉体のことを忘れさせてはくれない。

それでも男性的な社会のことが、わたしは好きだし否定できない。動物的なことをいったん括弧にくくらなければ、哲学や数学の世界はこれほど遠くまでこれなかった。不死の世界を学ぶことはパンにはならないが、生活の役に立つかどうかしか聞けない人間の、なんと夢のないことか。

女は最悪だが、生まれ変わるならまた女がいい。あたりまえだ。