遠浅

平野明

seven jewish children/Caryl Churchillを読む

キャリル・チャーチルの「ユダヤの7人の子どもたち」の戯曲は、2008年から2009年にかけてイスラエル軍ガザ地区を攻撃したことを受けて書かれた。
この舞台に7人の子どもたちは登場しない。ユダヤ人の大人たちが、子どもに何を言うべきか/言わないべきか話し合っている場面で構成されている。時間は1880年頃から2009年へと流れ、場面は7パートに分けられる。
この戯曲は緊張のベールに包まれている。ここはどこで、いつで、誰のセリフなのか。教えてはくれない。直接的な言葉は少なく、例えば第1章のテキストは、帝政ロシアポグロムとも、ナチス・ドイツホロコーストとも読める。それぞれのパートを読み、テキストの背景を想像したい。

https://graphics8.nytimes.com/packages/pdf/world/SevenJewishChildren.pdf


第1章
1880年ごろ。わたしの一族は帝政ロシアロシア革命が起こる前までのロシア)にいた。老いた母親と自分の兄弟、奥さんと子どもたち。締め切った部屋で身を潜めていた。娘にはお昼でも寝ているときみたいに丸まっててねと言った。外はポグロムのただなかだったから。わたしたちはユダヤ人だった。
ロシアでは、アレクサンドル2世の暗殺(1881年)をユダヤ人の犯行ときめつけ1万5千人のユダヤ人が殺された。それ以後、反ユダヤ主義の感情からポグロム(ロシア語で破壊の意味)という組織的なユダヤ人迫害が、20世紀の初めまで続いた。

または1937年。わたしの一族はドイツにいた。みんなで6人か7人、地下で身を潜めていた。地上はホロコーストのただなかだった。わたしたちはユダヤ人だった。
ヒットラーユダヤ人問題の最終解決法は、わたしたちユダヤ人をひとり残さず虐殺することらしかった。400万から600万人のユダヤ人がアウシュビッツに送られ命を失った。娘にはこれはゲームなんだと言って聞かせ、一族でイギリスに亡命した。

第2章
1945年。ホロコーストは終わったと聞かされた。おじさん以外のわたしたち一族はイギリスで生き残った。家を離れなかったおじさんとはそれっきりだった。きっとナチスに連行されたのだろう。
亡命の中で、母親が自分の中のユダヤ人を捨てていくのがわかった。一緒に来なかったおじさんは愚かだと言った。わたしもそう思った。
奥さんのお腹にはまだ名前のない子どもがいる。生まれてきたら、みんなあなたを愛していると言おう。その子が大人になったら、むかし何人だったか伝えよう。前世の話をするようにむかしの話をしよう。

第3章 
1947年。わたしの一族は引っ越しの準備をしている。イスラエルへ行くのだ。
19世紀末から徐々に始まったシオニズム、迫害から自由なユダヤ人国家を創設しようという構想と運動は、1948年のイスラエルの独立に結実した。
移住先の候補がパレスチナだったのは、エルサレムユダヤ教の聖地であり、紀元前にユダ王国があったことが理由にされた。また、ユダヤ教聖典である旧約聖書には、授かった十戒を守ればカナンの地(パレスチナ)が与えられるというヤハウエ(神)との契約があった。
わたしは生まれも育ちもヨーロッパのユダヤ人だった。両親もそのはずである。中東に暮らした記憶はない。だけど母親は子どもたちに「ひいおじいちゃんの、ひいひいひいひい……おじいちゃんたちが住んでいたのよ」と言う。そういうことになった。
だけど、移住先のパレスチナ無人の地ではなかった。そこには前から住んでいるパレスチナ人たちがいた。
もし激しい迫害や差別がなければシオニズムもなかったのかもしれない。それぞれの土地で平和に暮らせた未来があったのかもしれない。

第4章
1948年。わたしの一族は、イスラエルにある家具付きの家に引っ越してきた。
娘からの疑問は絶えない。わたしをじっと見ているあの子はだれ? あの子はどこに住んでるの? あの子の友だちや家族はどこにいるの? どうして怖い目でわたしを見るの?
わたしたちはユダヤ人だった。だからここに住む権利があった。ここがもともとパレスチナ人が住んでいた家だったとしても知らないふりをした。石を投げられれば投げ返した。
たちまちパレスチナ戦争(=第1次中東戦争)が起こった。エジプト、ヨルダン、シリア、イラクなどがパレスチナと共に戦ったが、武装したシオニストの軍隊が追い返した。結果的にイスラエルは国連分割案よりも広い土地を占領したまま、独立を確保した。

第5章
1987年。イスラエルの兵士としてパレスチナへ出向いていた息子が帰宅した。
帰ってきた息子を、一族はあたたかく迎え、ねぎらった。息子はインティファーダの武力鎮圧に参加していたのだった。
インティファーダ(=一斉蜂起)とは、パレスチナ民衆の間で自然発生したイスラエル占領地支配への抵抗運動のことだった。子どもが石を投げることから始まったパレスチナ人の民衆運動を、イスラエルは武力鎮圧した。このパレスチナ解放運動の中でイスラム主義(ハマス)は力を伸ばした。
パレスチナの公的機構にはPLOがある。その傘下に主流派のファタハPLO反主流派がある。PLOとは別にイスラム主義のハマスイスラム抵抗運動)とその武装集団カッサム旅団、イスラム聖戦がある。

第6章
2000年。娘のスイミングスクールでトラブルが起きた。野外プールにパレスチナ人が石を投げたのだという。娘からの質問は続く。あの子はどうして石を投げたの? どうして怖い目でわたしを見たの? プールの水は誰のものなの? 
パレスチナでは水の供給を制限されていた。許可なしの貯水槽や湧き水は許されず、イスラエル軍が没収したり破壊したりしていた。
子どもたちに隠しきれないことばかりになってきた。「ブルドーザー」とは、強硬な政治姿勢からその異名を持つシャロンのことだろう。彼はヨルダン川西岸に大量のユダヤ人入植地を建設し、入植地の父と呼ばれた。「オリーブの木」とはパレスチナのことだろう。オリーブはパレスチナ人の象徴で、生活に深く根ざした資源だったが、入植者の標的にされてはめちゃめちゃにされた。「壁」とは2007年にガザ地区を囲むように建設された壁だろう。テロ防止やイスラエル側の安全のためと言って。

第7章
2009年の年末。わたしの一族はイスラエルにいた。みんなで6人か7人、明るい陽がさすテーブルについていた。わたしたちはユダヤ人だった。どこに隠れる必要もなかった。
イスラエル軍ガザ地区空爆した。ガザの映像がテレビに流れ、娘はおびえ、おばさんはテレビを消した。
わたしはむかしのことを思い出していた。死と背中合わせだった毎日のこと。子どもたちに、お昼でも寝てる時みたいに丸まっててねと言ったこと。これはゲームなんだと言って安心させたこと。そのまま我慢していたら、あいつらを追い払うことが出来るし、危険なことはもうないと言ったこと。
言うべきことと、言えないことと、言いたいことを、いま考えている。

 

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