遠浅

平野明

山の座標

本は人の成長を待ってくれるけれど、舞台は成長を待ってはくれない。いつもいまの自分でしか見れない。いまの体調、いまの立場、いまの知識、いまの持ち物、いまの見方、つねにいましかないという意味で、出会いそのものみたいだと思う。なんでいまの自分が出会ってしまったんだろう、ということがあっても、それはいまだからだ。10年前に見たかった(もしくは10年後に見たかった)、あなたにもっとマシな自分で会いたかった。でもどうしよーもない。もう出会ってしまったのだから。いまのわたしのまま。

成長とかいうけど、人の性格とかレベルに良いも悪いもない。ただ座標が違うだけだ。(ルールがあるからいいとかわるいとかがあるだけで、単体でみたらみんなかわいい球体だと思う。)でも目指したい座標があって、それに徐々に自分を近づけていくことはあると思う。それはその人にとって成長だ。周りには退行に見えたとしても、人の中にはいつも進化しかない。座標から座標へ。人はどんな座標にいてもいい。

目指したい座標がある。それは山の座標だ。私が出会うことのできた凄い人たちは、みんな初対面で『山』の印象がある。付き合いが続いて山の印象が薄れても、彼らはずっとやさしくて、誰かに対して手のひらを返すところをみたことがない。山の人たちはたいてい、地に足がついてる感がすごくて、体つきも安定感があって、循環しているエネルギー量も実際の仕事量や活動量も半端ない。そして、情緒が安定していて、ハートもどっしりと開かれていて、人格者特有の清潔さがあった。わたしはまだ山を歩く人間だ。導かれるまま(彼という)山に入り、鳥とか木漏れ日とかを楽しんで夕方には街へ降りていくひとりだ。

はやく歳をとりたいと思う。若いって若いだけしかない。歳をとって、この座標から抜け出して、山になりたい。だけどそれには、いまのヘンテコな座標から山への試行錯誤の長い道のりが必要だと知っている。全ての人がはじめから山なわけではないし、一息に山になれるわけでもない。いまの自分にとってのデフォルトモードを少しずつ高くして、踏み固めて、疲れたらジャンクなものも許して、元気になったらまた薄く高くして、踏み固めて、地味に座標を動かしていく。

人はわたしの成長を待ってはくれない。舞台もわたしの成長を待ってはくれない。いまのわたしでしか会えない。そのスピード感についていけない時があるし、出会いの座標にわたしが追い付かなくてつらい時もある。いまはいつも本番で、全てはいまの連なりで、そういうストイックな考え方は疲れるから普段しないけど、全ての出会いにできるだけいい状態でノリたいなと思う。

 

p.s.舞台が出会いなら、本は人だ。山だ。本はやさしい。ずっと待っていてくれるから。どんなにいまがダメダメでも、どんなに忙しくても、ひらける・読めるわたしになるのを何年間も待っていてくれる。