遠浅

平野明

女という生きもの

どうして生理の話は恥ずかしいのだろう? ドラッグストアでは紙袋を用意してくれるし、実家では生理や性の話はタブーだった。「生理バレ」に怯え、生理用品のハート柄にふるえ、このテーマの扱いの難しさ(不器用に寄り添ったり突き放したりする関係)は、すでに社会の全体で共有されている感じがする。

生理は女に妊娠する力があるから起こる。排卵が起こり、妊娠の可能性に向けて子宮内膜が厚くなり、受精しないことが分かると、準備されていた子宮内膜が流れ落ちる。これが生理だ。

“妊娠に向けて準備したが、されなかったので排出した。”という結果を毎月血のかたちで見せられると、身体の才能に歯向かい続ける自分の生き方が間違っているような気がしてくる。生理は50歳あたりまで続くという。残り30年だとして、あと360回以上の生理がくる。妊娠して生理が止まっても、子どもを産めばまた生理がくる。ピルを飲んでも、止めればまた生理がくる。繰り返される身体からの報告は、わたしが女である以上に動物であることを自覚させる。

どうして恥ずかしいか? それは社会が動物的なしるしを隠す場所だからだ。社会はかっこいい。生活感がなく、意思が一貫していて、不死だから。社会と動物は非対称に存在し、常に社会は社会を、動物は動物を求める。

腰が重くて吐き気がする。ベッドに横になりながら、なぜ哲学者が男性ばかりなのか少し考えていた。女性が教育から排除されてきた歴史も大いにあるだろうが、毎月の生理が強制的に自分の足元を見つめさせるせいもあるのではと思った。生理は身体を絶対に忘れさせない。体調不良を訴え、流動的で、手がかかる肉体のことを忘れさせてはくれない。

それでも男性的な社会のことが、わたしは好きだし否定できない。動物的なことをいったん括弧にくくらなければ、哲学や数学の世界はこれほど遠くまでこれなかった。不死の世界を学ぶことはパンにはならないが、生活の役に立つかどうかしか聞けない人間の、なんと夢のないことか。

女は最悪だが、生まれ変わるならまた女がいい。あたりまえだ。

2月

これ、ぱーちゃんが編んでくれた巾着なんだけど上手じゃない? 突然はじまる編み物教室。わたしは紐通すところでギブアップして、編みかけの巾着は本棚に差してしまいました。ということで2月は編み物。(ウソでも一度は編んだもん。)

f:id:hiramydays199:20240414231218j:image街灯にとまってたり、水に浮いてる鳥たちは何かというと、カムチャッカから越冬にやってきたユリカモメかオオバン。1日ごとに夏になったり真冬になったりするおかしな2月の気温変化の中で、彼らが明日にでも帰ってしまいそうでドキドキする。来年も越冬に来てくれたらいいなと、まだ帰らないうちから思っている。

中東戦争を読む

4回の中東戦争レバノン内戦をまとめたい。

○1948年 第一次中東戦争
(別名:パレスチナ戦争。イスラエルでは「独立運動」。アラブ側では「ナクバ(=大災害)」)
・交戦国
イスラエルアラブ諸国(エジプト・シリア・イラクレバノン・ヨルダン)
・きっかけ
1948年にイスラエルが建国宣言をしたことによって。建国やシオニズム運動に抵抗するアラブ諸国との間で戦争が勃発。
・結果
イギリス・アメリカの支援を受けていたイスラエルの勝利に終わった。
1949年に国連の仲介により停戦。イスラエルは国連分割案(注1)よりも広い土地を占領して独立を確保した。このとき休戦協定で定められた境界線をグリーンラインという。

注1:国連分割案(1947年)
パレスチナ問題を解決するための国際連合(注2)によるパレスチナ分割案。土地の57%をユダヤ人に。43%をパレスチナ人に。エルサレムは国際管理下に置くという提案だった。ユダヤ人は不十分ながら昔の約束(バルフォア宣言。注3)の実現を歓迎したが、アラブ諸国は反対した。

注2:国際連合
1945年に発足した国際機構。本部はアメリカのニューヨーク。
国際連合の理念の元になる国際連盟1920年に発足した。本部はスイスのジュネーヴ。初期の常任理事国はイギリス・フランス・イタリア・日本。
"世界の警察"と言ったら、1945年まではイギリスのことだったが、それ以降はアメリカを指すようになる。

注3:バルフォア宣言
第一次世界大戦末(1917年)にイギリスがユダヤ人に対して「戦争が終わったらパレスチナの地にユダヤ人国家の建設を認める」と宣言した。

 

○1956年 第二次中東戦争
(別名:スエズ戦争
・交戦国
イギリス・フランス・イスラエルとエジプト
・きっかけ
エジプトのナセル大統領がスエズ運河(注4)国有化を宣言したことによって。
衝撃を受けたイギリスはフランスに働きかけ、共同でエジプトに侵攻した。イギリスはスエズ運河会社の株主としての利益を失い、運河航行の自由がなくなることを恐れた。イスラエルはまだ領土を拡大する必要があった。
・結果
イギリスとフランスに国際的非難が寄せられ、国際連合の勧告により停戦。エジプトは戦争では敗れたものの、スエズ運河のエジプト国有化という実質的な勝利を収める。

注4:スエズ運河
スエズ運河は、地中海と紅海を結ぶ全長193km、深さ24m、幅205mの人口水路。当時は全長164km、深さ8m。
営業開始は1969年。運河建設にはフランスの外交官のフェルディナン・ド・レセップスが指揮を取る。イギリスは建設に一貫して反対だったが、実際運行が開始されると利用の8割がイギリス船だった。1875年、スエズ運河会社をイギリスが買収。その利益はイギリスやフランスの株主に分配し、エジプトにはわずかな利益しかもたらさなかった。

 

○1967年 第三次中東戦争
(別名:イスラエルでは「6日間戦争」)
・交戦国
イスラエルとエジプト、シリア、ヨルダン、イラク
・きっかけ
1967年6月にイスラエルが奇襲をかけたことによって。
エジプト、シリア、ヨルダン、イラクに先制爆弾を加え、スエズ運河に向けて進撃。旧約聖書ではカナンの地はエジプトのシナイ半島も含まれるというシオニスト改訂派の主張があった。
・結果
6日間でイスラエルの圧倒的な勝利に終わる。イスラエルは新たな占領地を獲得し、領土に加えた。①エジプトのシナイ半島②シリアのゴラン高原③ヨルダン西岸とガザ地帯。エルサレムも実効支配し、イスラエルの国境は拡大した。
イスラエルの占領は国際常識に反するものとして非難が集まった。「イスラエル軍の撤退と引き換えに、イスラエルを認めること」という安保理決議が打ち出されたが、エジプトとヨルダン以外のアラブ諸国イスラエルが反対したため、状況は1982年まで続いた。エジプトのナセル(注5)は敗北したアラブに責任をとって辞任しようとした。

注5:ナセル
ガマール・アブドゥル=ナーセル(1918-1970)。エジプトの大統領。アラブ諸国のリーダー。アラブ諸国の統一(アラブ民族主義)を目指した。
ナセルがしたこと ①1952年のエジプト革命。②1954年にイギリス占領軍の全面撤退。③スエズ運河国有化。1970年、ヨルダン内戦のヨルダンとPLOの仲裁の最中で急死した。ナセルの葬式には500万人の葬列者が押しかけた。ナセルの死により、アラブ諸国統一の夢は遠くなる。大統領は盟友のサダトが継いだ。

 

○1973年 第四次中東戦争
(別名:アラブ側では「10月戦争」イスラエル側では「ヨム・キプール(ユダヤ教安息日)戦争」)
・交戦国
イスラエルアラブ諸国(エジプト・シリア・イラク・ヨルダン)
・きっかけ
第3次中東戦争で奪われた土地の奪回のため。
1973年10月にエジプトとシリアはイスラエルへ先制攻撃をかけた。
・結果
エジプトはシナイ半島を奪回出来なかったが、石油戦略(注6)によって停戦に持ち込むなど大局的に見てアラブ側の勝利に終わった。

注6:石油戦略
エジプト大統領のサダト(注7)は、戦争が開始された翌日に2倍に近い原油の値上げを一方的に通達し、イスラエルを支援するアメリカやオランダへの全面禁輸を実施した。石油ショックは国際的な影響をもたらし、1974年のアラファト議長(注8)の国連総会での演説を可能にさせた。

注7:サダト
ナセルを継いだエジプトの大統領。第四次中東戦争シナイ半島の奪回に失敗すると、一転してイスラエルとの和平交渉に乗り出し、1979年にエジプト=イスラエル平和条約(イスラエルの存在を認めた上で、占領地の回復を認めさせる)を結んだ。サダトイスラエルのベギン首相と握手をし、共にノーベル平和賞を受賞したが、他のアラブ諸国に図らず敵国イスラエルに乗り込むなどアラブにとっては裏切り者でしかなく、1981年に暗殺された。シナイ半島は1982年に返還された。

注8:アラファト
パレスチナ解放機構(注9)を率いた議長。イスラエルを攻撃した。
1974年のニューヨークの国連総会で演説した。「オリーブの枝と銃を持って、今日ここへやってきた。どうか私の手から銃を落とさせ、オリーブの枝を掲げさせてください」
1982年のレバノン内戦や、エジプトのイスラエルとの和平条約の流れの中で、武装闘争の路線を二国共存の方向へ変えていく。1993年のオスロ合意で、イスラエルのラビン首相と握手し、パレスチナ暫定自治協定を成立させた。

注9:パレスチナ解放機構PLO
1964年に設立したパレスチナの公的機構。拠点は初めヨルダンのアンマンにあったが、1970年にヨルダン内戦が起こり(=黒い9月)、拠点をレバノンベイルートに移した。1982年にはレバノン内戦でレバノンイスラエルが侵攻してきたため、チュニジアチュニスに移した。(初期の拠点がパレスチナ内ではなかったのは、パレスチナは独立国でない上にPLO武装組織だったから。)
PLOの主流派はファタハで主導者はアラファトPLOとは別にイスラム主義のハマスイスラム抵抗運動)とその武装集団カッサム旅団、イスラム聖戦がある。

 

○1975年〜1990年 レバノン内戦
・交戦
PLOレバノンキリスト教勢力(マロン派。注10)
・内容
レバノンは元からキリスト教徒とイスラーム教徒が共存する国家だった。1920年にフランスの委託統治領になり、43年に独立しても民族的・宗教的に複雑で、マロン派(キリスト教徒)とイスラム教徒は衝突していた。
第一次中東戦争パレスチナ難民が多数移住し、それは1970年にPLOの拠点がレバノンに移るとさらに加速した。PLOベイルートを拠点に、対イスラエル武装闘争を展開し、レバノンではPLO排除の動きが強まり、シリアも反PLOの立場で介入する事態になった。1975年にPLOキリスト教勢力の形で内戦になった。

注10:マロン派
レバノンで大きな勢力を持つキリスト教徒。アラブ人だが、親西欧の立場で、イスラーム教徒のパレスチナ難民と対立し、たびたび虐殺事件を起こしている。ファランジスト(注11)という民兵組織を持つ。レバノン内戦中の1982年、ベイルートの難民キャンプはイスラエル軍に包囲され、その中でファランジストによるシャティーラの虐殺(注12)が行われた。

注11:ファランジスト(=カターイブ)
レバノンにおけるキリスト教マロン派系の極右政党・民兵組織。正式名称はレバノン社会民主党である。レバノン独立を目的に1936年に結成。ドイツのナチスを模範としたファシズム政党としており、ナチスの突撃隊を真似た私兵集団を組織した。

注12:シャティーラの虐殺
1982年、レバノンベイルートパレスチナ難民キャンプで虐殺が起こった。キャンプの名前はサブラ・シャティーラ。3日間の虐殺については、芝生瑞和の「パレスチナ合意」p33を引用する。

イスラエルは"建国"はじまって以来の激しい国際世論の批判にさらされた。それはPLOベイルートを去ったあとに西ベイルートのサブラ・シャティーラ難民キャンプでおこったパレスチナ人の大虐殺で頂点に達した。難民キャンプはイスラエル軍により包囲され監視されていた。そして3日間キャンプが閉鎖されたなかで、イスラエル軍の協力者であるレバノンファランジストが3000人(すぐ集団埋葬されてしまったため正確な数字は不明)といわれる老人、女性、子どもを含む民間人の虐殺の下手人になった。当時ベイルートでは世界中の報道期間がこの戦争を取材するため滞在していた。虐殺直後のキャンプの様子は克明に報道された。かつてホロコーストの犠牲になったユダヤ人がつくった「民主国家イスラエル」というイメージの風化は、西欧において決定的になった。(パレスチナ合意 背景、そしてこれから/芝生 瑞和/1993)

そのときのことをジュネは「シャティーラの4時間」という本にした。

その時だった。家から出ようとする私を突然の、ほとんど頬を弛ませるような軽い狂気の発作が襲った。私は心につぶやいた。棺用の板も指物師も絶対に足りなかろう。それに棺なんかどうだっていい。死者は男女とも皆イスラム教徒なのだから屍衣に縫い込まれることになる。それにしても、これだけの数の死者を埋葬するには一体何メートルの布地が要るだろう。そしてどれほどの祈りが。そうだった、この場にかけていたのは祈禱の朗唱だった。(シャティーラの4時間/ジャン・ジュネ

 

参考資料:

パレスチナ合意 背景、そしてこれから/芝生 瑞和/1993
パレスチナへ帰る/エドワード・サイード四方田犬彦訳・解説/1999
パレスチナ芝生 瑞和/2004
・シャティーラの4時間/ジャン・ジュネ/鵜川哲訳/1987
・webサイト 世界史の窓 https://www.y-history.net/


(間違ってるところがあったら教えてください。)

作品はだれのもの

人と作品を作るのが大変なのは、作品の主体がいつも観客にあるからだ。作品は演出家のものでも俳優のものでもない。観客のものだ。
だから観客の目を持った演出には人間味がない。自分の目ですら捨て、人間ではないものに全身でなっている。俳優の都合を考えない演出は、めぐりめぐって俳優の中にほとばしる時間や頬の赤みを観客に経験させる。
映画とか演劇とかだけじゃなくて小説もそうだ。画用紙に集めた太陽光から白い煙があがるように。文章がチリチリと絵を描こうとするとき心の居場所を知るのだ。
アフターサンは映像と音のずれに結ばれる死の風景に。アルベルト・ジャコメッティの彫刻はひとつひとつ肌をなぞったら打たれそうな孤独に。マディソン郡の橋は恐ろしく長いダンスシーンと雨の日の出来事に、同じように狂ってしまう。
現実のあれこれに表現は絶対勝てない。今日のご飯や、2人だけの恋愛生活や、目の前の人の孤独は、言葉にした時点でこぼれ落ちるものが多すぎる。話せば話すほど嘘になってしまう。だけど情報量を落とすから遠い場所に行けるのだし、人間味を欠いたまなざしを組み合わせることで、あの時の個人的な胸のふるえを描き出せる。ページを繰る指や、客席の目の中に描くことができる。
絵なんか描くより白紙のキャンバスの方がずっとかっこいい。そう言って描くのを辞めてしまった絵描きのことを考えていた。表現の絶望から始まる絵の描き方が、このごろ感覚的にわかった気がする。

感情教育/中山可穂

女2人の前史を語る文章の低体温さが好きだ。恋に落ちてからは、文章が熱さにふるえて溶けていきそうだった。小説の内容とは文章が示すものなのに、読みすすめるうちに内容が文章を造形しはじめる。
床に打ちつけられたスーパーボールはいつまでだって見ていられる。おもしろかった。

 うちへ昼寝にいらっしゃい。
 那智にとってそれはどんなに魅惑的なフレーズに聞こえたことだろう。不眠症はいよいよ深刻な事態になりつつあった。車で信号待ちをしているあいだにすうっと眠り込んでしまう。打ち合わせの最中にうたた寝してしまう。食事中でも入浴中でも睡魔は突然に襲ってくる。それなのに夜中には眠れない。あの家では眠ることができない。無理にでもまとめて睡眠を取らなければおかしくなってしまいそうだった。那智は理緒の申し出に甘えることにした。あの声には心地よく眠らせてくれる磁力があるのだ。(感情教育中山可穂

 

seven jewish children/Caryl Churchillを読む

キャリル・チャーチルの「ユダヤの7人の子どもたち」の戯曲は、2008年から2009年にかけてイスラエル軍ガザ地区を攻撃したことを受けて書かれた。
この舞台に7人の子どもたちは登場しない。ユダヤ人の大人たちが、子どもに何を言うべきか/言わないべきか話し合っている場面で構成されている。時間は1880年頃から2009年へと流れ、場面は7パートに分けられる。
この戯曲は緊張のベールに包まれている。ここはどこで、いつで、誰のセリフなのか。教えてはくれない。直接的な言葉は少なく、例えば第1章のテキストは、帝政ロシアポグロムとも、ナチス・ドイツホロコーストとも読める。それぞれのパートを読み、テキストの背景を想像したい。

https://graphics8.nytimes.com/packages/pdf/world/SevenJewishChildren.pdf


第1章
1880年ごろ。わたしの一族は帝政ロシアロシア革命が起こる前までのロシア)にいた。老いた母親と自分の兄弟、奥さんと子どもたち。締め切った部屋で身を潜めていた。娘にはお昼でも寝ているときみたいに丸まっててねと言った。外はポグロムのただなかだったから。わたしたちはユダヤ人だった。
ロシアでは、アレクサンドル2世の暗殺(1881年)をユダヤ人の犯行ときめつけ1万5千人のユダヤ人が殺された。それ以後、反ユダヤ主義の感情からポグロム(ロシア語で破壊の意味)という組織的なユダヤ人迫害が、20世紀の初めまで続いた。

または1937年。わたしの一族はドイツにいた。みんなで6人か7人、地下で身を潜めていた。地上はホロコーストのただなかだった。わたしたちはユダヤ人だった。
ヒットラーユダヤ人問題の最終解決法は、わたしたちユダヤ人をひとり残さず虐殺することらしかった。400万から600万人のユダヤ人がアウシュビッツに送られ命を失った。娘にはこれはゲームなんだと言って聞かせ、一族でイギリスに亡命した。

第2章
1945年。ホロコーストは終わったと聞かされた。おじさん以外のわたしたち一族はイギリスで生き残った。家を離れなかったおじさんとはそれっきりだった。きっとナチスに連行されたのだろう。
亡命の中で、母親が自分の中のユダヤ人を捨てていくのがわかった。一緒に来なかったおじさんは愚かだと言った。わたしもそう思った。
奥さんのお腹にはまだ名前のない子どもがいる。生まれてきたら、みんなあなたを愛していると言おう。その子が大人になったら、むかし何人だったか伝えよう。前世の話をするようにむかしの話をしよう。

第3章 
1947年。わたしの一族は引っ越しの準備をしている。イスラエルへ行くのだ。
19世紀末から徐々に始まったシオニズム、迫害から自由なユダヤ人国家を創設しようという構想と運動は、1948年のイスラエルの独立に結実した。
移住先の候補がパレスチナだったのは、エルサレムユダヤ教の聖地であり、紀元前にユダ王国があったことが理由にされた。また、ユダヤ教聖典である旧約聖書には、授かった十戒を守ればカナンの地(パレスチナ)が与えられるというヤハウエ(神)との契約があった。
わたしは生まれも育ちもヨーロッパのユダヤ人だった。両親もそのはずである。中東に暮らした記憶はない。だけど母親は子どもたちに「ひいおじいちゃんの、ひいひいひいひい……おじいちゃんたちが住んでいたのよ」と言う。そういうことになった。
だけど、移住先のパレスチナ無人の地ではなかった。そこには前から住んでいるパレスチナ人たちがいた。
もし激しい迫害や差別がなければシオニズムもなかったのかもしれない。それぞれの土地で平和に暮らせた未来があったのかもしれない。

第4章
1948年。わたしの一族は、イスラエルにある家具付きの家に引っ越してきた。
娘からの疑問は絶えない。わたしをじっと見ているあの子はだれ? あの子はどこに住んでるの? あの子の友だちや家族はどこにいるの? どうして怖い目でわたしを見るの?
わたしたちはユダヤ人だった。だからここに住む権利があった。ここがもともとパレスチナ人が住んでいた家だったとしても知らないふりをした。石を投げられれば投げ返した。
たちまちパレスチナ戦争(=第1次中東戦争)が起こった。エジプト、ヨルダン、シリア、イラクなどがパレスチナと共に戦ったが、武装したシオニストの軍隊が追い返した。結果的にイスラエルは国連分割案よりも広い土地を占領したまま、独立を確保した。

第5章
1987年。イスラエルの兵士としてパレスチナへ出向いていた息子が帰宅した。
帰ってきた息子を、一族はあたたかく迎え、ねぎらった。息子はインティファーダの武力鎮圧に参加していたのだった。
インティファーダ(=一斉蜂起)とは、パレスチナ民衆の間で自然発生したイスラエル占領地支配への抵抗運動のことだった。子どもが石を投げることから始まったパレスチナ人の民衆運動を、イスラエルは武力鎮圧した。このパレスチナ解放運動の中でイスラム主義(ハマス)は力を伸ばした。
パレスチナの公的機構にはPLOがある。その傘下に主流派のファタハPLO反主流派がある。PLOとは別にイスラム主義のハマスイスラム抵抗運動)とその武装集団カッサム旅団、イスラム聖戦がある。

第6章
2000年。娘のスイミングスクールでトラブルが起きた。野外プールにパレスチナ人が石を投げたのだという。娘からの質問は続く。あの子はどうして石を投げたの? どうして怖い目でわたしを見たの? プールの水は誰のものなの? 
パレスチナでは水の供給を制限されていた。許可なしの貯水槽や湧き水は許されず、イスラエル軍が没収したり破壊したりしていた。
子どもたちに隠しきれないことばかりになってきた。「ブルドーザー」とは、強硬な政治姿勢からその異名を持つシャロンのことだろう。彼はヨルダン川西岸に大量のユダヤ人入植地を建設し、入植地の父と呼ばれた。「オリーブの木」とはパレスチナのことだろう。オリーブはパレスチナ人の象徴で、生活に深く根ざした資源だったが、入植者の標的にされてはめちゃめちゃにされた。「壁」とは2007年にガザ地区を囲むように建設された壁だろう。テロ防止やイスラエル側の安全のためと言って。

第7章
2009年の年末。わたしの一族はイスラエルにいた。みんなで6人か7人、明るい陽がさすテーブルについていた。わたしたちはユダヤ人だった。どこに隠れる必要もなかった。
イスラエル軍ガザ地区空爆した。ガザの映像がテレビに流れ、娘はおびえ、おばさんはテレビを消した。
わたしはむかしのことを思い出していた。死と背中合わせだった毎日のこと。子どもたちに、お昼でも寝てる時みたいに丸まっててねと言ったこと。これはゲームなんだと言って安心させたこと。そのまま我慢していたら、あいつらを追い払うことが出来るし、危険なことはもうないと言ったこと。
言うべきことと、言えないことと、言いたいことを、いま考えている。

 

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もし間違ったところがあったら教えてください。

1月の気分

パートナーは大のファッション好きです。色々着させてもらううちに、もうちょっと知りたくなった気がする。1月の気分(=ファッション)は2本のマフラー。いただいた大事なもので、しかもカシスとブルーベリーな色、2色あるのがかわいい。

おしゃれな人って、つまりやりたいことの統一感があるので、遠くから見てもぼやけずくっきり見える気がする。 本当は世間が許すならじゃがいも袋を着て過ごしたいんだけど……ファッションは気分という解釈、やりたいことの気分を追うことなら自分にもできるかも。

昨日(1月30日)、年の若い友だちと会うことになった。「えー、じゃあ今から家おいでよ。ご飯つくるよ」て話に秒でまとまって、1時間もすると玄関のチャイムが鳴った。

2人でキッチンに立つ。茹でたパスタを皿に取り分け、バターを添え、根菜いっぱいのミートソースを盛って、てっぺんには目玉焼き。ちょっとご馳走感のある、だけどいつもの夜ごはんになった。

だらだら5時間ぐらい喋って、彼女が帰ったあとも過ごした時間がうれしかった。ひととき自分がカフェになった気がした。カフェはいい。ベローチェタリーズ、スタバ、マック。いつでもプラっと入れてプラっと去れる場所。入るのにも帰るのにも理由が必要のない場所。どこにでもある公園。鳥の遊び場。

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かなり昔のように感じるけど、1月にはnew year’s party(新年会)をひらいた。招待状を作り、1ヶ月前から献立を立てた。「会費無料、自分が飲みたいもの持ってきてね」のスタンスで、だけどみんなワインとかお花とかおみやげをどっさり持ってきてくれて、勝手に花瓶に生けたり、弟がベッドで寝てたり、テーブルでパスタを和えたり分けたり、テクノに半分踊ったりで、はじめましてな人もたくさんだったのに、わいわいわいわい楽しかった。

会いに来てくれたり会いに行ったり、なにか新しい時間の訪れを感じる。友だちに素敵な恋人ができて泣けるほどうれしい。パフェが美味しい。今年は理由なくいい年になる気がする。

「この星の未来 わたしたちの気分次第」って小袋くんが歌ってくれて、だよね〜と思う。