遠浅

平野明

作品はだれのもの

人と作品を作るのが大変なのは、作品の主体がいつも観客にあるからだ。作品は演出家のものでも俳優のものでもない。観客のものだ。
だから観客の目を持った演出には人間味がない。自分の目ですら捨て、人間ではないものに全身でなっている。俳優の都合を考えない演出は、めぐりめぐって俳優の中にほとばしる時間や頬の赤みを観客に経験させる。
映画とか演劇とかだけじゃなくて小説もそうだ。画用紙に集めた太陽光から白い煙があがるように。文章がチリチリと絵を描こうとするとき心の居場所を知るのだ。
アフターサンは映像と音のずれに結ばれる死の風景に。アルベルト・ジャコメッティの彫刻はひとつひとつ肌をなぞったら打たれそうな孤独に。マディソン郡の橋は恐ろしく長いダンスシーンと雨の日の出来事に、同じように狂ってしまう。
現実のあれこれに表現は絶対勝てない。今日のご飯や、2人だけの恋愛生活や、目の前の人の孤独は、言葉にした時点でこぼれ落ちるものが多すぎる。話せば話すほど嘘になってしまう。だけど情報量を落とすから遠い場所に行けるのだし、人間味を欠いたまなざしを組み合わせることで、あの時の個人的な胸のふるえを描き出せる。ページを繰る指や、客席の目の中に描くことができる。
絵なんか描くより白紙のキャンバスの方がずっとかっこいい。そう言って描くのを辞めてしまった絵描きのことを考えていた。表現の絶望から始まる絵の描き方が、このごろ感覚的にわかった気がする。