遠浅

平野明

11月

(11月のグラス。ポルトガル産。切り口がいい!)

人生が始まるのは何歳からだろう? 始まる前はひたすら世界は混沌として見えた。アスファルトアスファルトと思えなかったし、人の数だけ固有の世界があることが怖くて新宿が嫌いだった。わたしたち人間じゃない時があったよね。友だちもそう言う。

にんじんはにんじん。世界は世界である。もつれた毛糸玉みたいになっているのはわたしの方だ。ちんまりちんまり、解いては解いて、それだけで人生が終わってしまっても、それが生きることだと思う。固結びが解けたとき、わたしはまた本を読むだろう。誰かに出会うとき、また結び目が解けるだろう。

鎌倉にハイキングに行ったり、来月の朗読会が決まったり、ネトフリでやってる葬送のフリーレンがすごい面白かったり、11月も楽しかったけど、一番覚えてるのがパートナーに怒られたことだった。少し書こう。

わたしの基本姿勢は、誰かに絶対と言わないことである。なぜなら、絶対なんてないから。人は人に何か言うことはできないと思っているので「100ぱー悪い」とか「絶対あっちがいい」とか言ってる人はすごいな、よく言えるなと思う。
例えば電車でうるさい人がいようが、隣の席の貧乏ゆすりがひどかろうがどうでもいい。例えば親しい人がマルチ商法をしようが、やばい奴と会おうがどうでもいい。例えば女友達と仲が悪くなったとしても、両者とも悪くないが単純に組み合わせが悪いと考える。
わたしは電車の車両を変え、カフェ席を移り、やばい友だちから離れる。説得はするが怒ることはしない、なぜなら彼らは悪くないのだから。

一方、パートナーは基本怒る人だ。表現のひとつに怒ることがあるというか。怒るにしても、自信を持って怒るので、暮らして最初は意味不明だった。相手を萎縮させ、平常に話し合いが出来ない状態に持ち込むことは合理的ではないのではと思った。親以外に怒られたことがないので、初めて怒鳴られた時はマジでびっくりした。

彼が怒るときは、わたしが悪いパターンと、わたしの思い出に登場した人が悪いパターンがある。わたしの無意識の怒りを代弁してわたしが怒鳴られることもある。怒られると涙が出るし、なんだよ!と思うけど、他人のことなどどうでもいいと思いながら実は怒っている自分に出会うことができて、素直になる瞬間の方が多い。

彼は言う。みんなバカにされすぎだよ。怒らなすぎだよ。卑屈になりすぎだよ。ヘラヘラしすぎだよ。騙せると思われていることに怒りなよ。
誰かに言うことは怒ることに近いから例を出すと、彼は電車の入り口で仁王立ちする邪魔な人がいたら「邪魔です」と言う。自由に邪魔しているのなら、こちらも自由に邪魔だと言う。ヨーロッパならまだしも日本だぞ。だけど彼にとって場所も相手も関係ない。その純粋さに、わたしは度肝を抜かれ、尊敬する。

彼は自由な人が好きなのだ。だから勝手に不自由になっている人に厳しいんだと思う。卑屈になった心は、いつか自分や他人をあざむきはじめる。そういうモードを怒ることに、自分も他人もないのだと思う。

わたしはこれからも人に怒鳴ることはないだろう。怒鳴ることは自分の役目ではないから。でも怒ることを禁止したり、怒らないことで卑屈になるのはやめようと決めた。
もしこれから親しい人が、ヘンな方向へ行こうとしたらちゃんと止められる。それはだめだって。真意じゃないだろって。自分を騙さないでって。ならわたしはあなたと付き合えないって。言える気がする。

反省文みたいになっちゃった。や、でも明るいよ。
勝手に生きてる人って見てるだけで気持ちいいよね。偉そうな人もプライド高い人も大好きよ。みんな自由に生きてください。じゃあね。