遠浅

平野明

目的/合目的

いま、ジル・ドゥルーズの「カントの批判哲学」國分功一郎訳(ちくま文芸文庫)を読んでいる。@naturisizukawaさんの「カント『道徳形而上学原論』を読んで」を読んで、カントに興味を持ったのがきっかけだった。1行ごとに思考の上書きを求めてくるような内容でゆっくりとしか読めず、去年の12月から読んでるのにまだ1章をうろうろしてる。がんばって年内には読み切りたい。

今回は、カントの批判哲学の第1章からばんばん登場する「合目的」という概念が分かったのでまとめてみる。わたしが「合目的」について知りたかったことは3つ。まずは目的と合目的の違い、それから合目的と手段の違い、「目的なき合目的性」という言葉の意味とそれが美につながる感覚だ。

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目的/合目的

「目的」を何かのための最終的なゴールとしたら「合目的」はそのまわりにあるものである。

例えばここに時計がある。時計は「時間を知る」という目的のために作られたものだけれど、歯車や針が正しく動くようになっているのは合目的といえる。別にデジタル時計でも時間はわかるし、地面に突き立てた棒の影でも時間はわかる。合目的とは、なにかの目的に適している状態や仕組みのことで、わたしたちが指をさすことができるもので、常に複数あるものだ。対して目的というのはひとつであり、指をさせない表象だ。

目的を志向するものを合目的というならば「目的」と「手段」といってもよさそうだけれど「手段」は必ず何かの目的に従属するから手段なのである。対して「合目的」は目的がなくても成り立つことができる。この「目的なき合目的性」という概念を、カントは判断力批判のなかで美的判断について説明するときに使っている。

カントの「目的」とはその対象のあるべき姿を意味している。目的があらかじめ与えられている快の感情もあるけれど(たとえば善)、美はそうではない。わたしたちは対象のあるべき姿(=目的)を知らないのにその姿が目的に適っている(=合目的的)と感じることがある。目の前にある対象はまさしく今あるがままの姿であるべきだと感じること、それが美である。

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理解の助けになったのは國分功一郎の「手段からの解放」というカント本だった。〈どうしてなのかはよくわからないけれども〉というフレーズが自分にとっては大きな手がかりになった。「合目的」をほんとうに理解してるのかと言われたら自信はないけれど、分からなすぎて読み進められないということがなくなったのでよしとしよう。
それにしてもカントの目的の定義はすてきだな。目的は与えたり与えられるものだと思っていたけれど、対象自体にも目的はあるのだなあ。