遠浅

平野明

忘れる

7時起き。朝から夕方までカフェでバイト。蔓延防止がはじまったので人通りがない。荒れた指先を見つめる時間が長くなる。今日の夜のバイトが無くなった。帰宅しても落ち着かない。今日は家にいたらダメになりそうって、よみさしの本を持って家を出る。劇場近くのベローチェ。上司から連絡があり現場へ。昨日の色整理の続きをする。たのしい。ゲネ終わり、灯体を少し片付けて解散。劇場を出ると夜。コートのポケットに要らない色をしまって、歩いて帰る。

 

(失恋ってなんですか?って聞いたら、その人は「今まで信じていた世界が全部ウソだったってこと。」と言って、ほんとに怖かった。それが失恋なら私は失恋したことないし、なんなら恋愛もしたことがない。そんなの宗教みたい、と言うと、「宗教だよ」とその人は言って、もっと怖くなった。これは50の女の人との話。)

君がわたしについて触れないから、わたしのこと思ってるんだって分かる。わたしについて忘れるときはきっと、君の日記にわたしの苗字が登場するんだと思う。言葉をつかって何かを明るみに出したとき、それが持つ切実な意味を永遠に奪ってしまうなら、その暴力で、わたしはいろんなことを忘れたい。なかったことにしたい。そうでないと本当に一生、君の才能を誰かに探してしまうだろうから。そうして現に8年も経ってしまった。

わたしたちはほとんど同じなのに、なんで家に帰ると、君は君に、わたしはわたしになってしまうんだろうとずっと思っていた。自分の恵まれた環境が許せなくて、君がキツそうなのを見ていられなくて、もし19歳の自分にすごくお金があったら、全部使って君を助けたかった。自分と他人は絶対に違うんだと分かるようになったのはずっと後のことで、その時はただ、君がうれしいとうれしかった。メールをしたり、手紙を書いたり、美術室でしゃぼん玉したり、本をくれたりあげたり、バンド組んだり、解散したり、一緒にバス乗ったり、絶交したり、海を歩いたり、いっぱい食べるやつって思われたくなくて昼食のパンを二口しか食べられないほど好きだったのに、言わないといけない言葉に向き合えたのは、全ての関係が時効になってからだった。

当時、(初期の)きのこ帝国とハルカトミユキの、生っぽいダークさに熱狂していたわたしは、ある掲示板に「みんなホントはこういうこと思ってるんじゃないの? なんで評価されないの?」みたいなコメントを見つけて、それなと思ったものだけど、今なら分かる。鋭利で繊細で傷だらけのまま生きることは自慢にならない。大人になるにつれて、わたしは彼らの曲を聞かなくなってしまった。

忘れようと思えば、ちゃんと忘れられるのがわたしの良いところだと思う。もう探さない。もう思い出さない。それは今日じゃなくちゃいけない。それでわたしの知らんところで、その才能が誰かに認められて欲しい。絶対目に入らないところで、生きてて欲しい。